第59話

「いいや。未来は変わっていない。その事件は新聞のバックナンバーでも目を通していたよ。ただそれが、藤咲菫に関わる事件だとは思わなかったんだ」


 ビールを煽った航は、飲み干した缶を握りつぶした。


「被害者が藤咲慎二の知り合いだということも、今日になってようやく知ることができた」


「藤咲って……」


 一瞬言葉を失った碧は、すぐに彼に詰め寄り、「菫ちゃんのお父さんですか!」と言った。「どうしてお知り合いが被害に……」


「君は藤咲菫が心を失ったようだと表現していただろ。その原因の一端が、次の被害者でもある紺野って男にあったのさ」


 航は一度間を置き、呼吸を整えた。


「彼らは藤咲菫の脳内に、未知の物質を埋め込んだようだ」


「……未知の、物質?」


 不吉な響きに思わず押し黙った碧は、話の続きを待った。手に持った缶を袋に投げ入れた航は、「僕は今日の昼間に藤咲菫の父親、すなわち藤咲慎二に偶然出会ったんだ。色々と話を聞くことができたよ」と言った。


「藤咲慎二は、とある物質の成分分析を紺野に依頼したそうだ。彼らはそれを”赤い石”と呼んでいたが、その物質が精神に影響を与えることにしばらくして気がついた。藤咲菫は脳に病を患っていたらしく、その治療の一環として赤い石を活用することを二人は試みたようだ」


「赤い石……? 脳に病って……」


 碧は、とある情景を思い返していた。河川敷で菫が見せてくれたお守りの中には、赤い宝石が入っていた。それを愛おしそうに眺めている菫の横顔が浮かんだ彼女は、一つ疑問に思うことがあった。


「治療をしたのに、どうして菫ちゃんの病気は治らなかったんでしょうか」


 碧の言葉に肩を竦めた航は、次いで焚き火の世話をしながら「そもそも赤い石こそが、精神に悪影響を与えている元凶だったからさ」と答えた。


「彼らは病に対する緊急措置として脳内に赤い石を埋め込むことを決意したそうだが、逆にそれは精神の侵食を加速させる結果となった。手術を終えてしばらくの間は穏やかな状態だったらしいが、徐々に理性を失っていったそうだ」


「そんな……」


 ショックを隠しきれない様子の碧は、気づけば涙を流していた。お淑やかで人見知りをしがちだった頃の菫は、もはや戻ってこないのだろうか。どうしてもっと早く気づいて上げられなかったのだろうか。


「手術を行ったのはこれまた藤咲慎二の友人で八十島という男だが、その男は七年前に紺野を殺害した容疑で逮捕されている」


「殺害!?」


 碧は意外な言葉にまたも声を上げた後、「菫ちゃんが殺したんじゃ……?」と遠慮がちに尋ねた。


「実際の所は僕にも分からない。けれど八十島は、逮捕の直前に藤咲慎二に宛てて一冊の手帳を送っていたんだ。そこには『夢の中で菫に襲われた』という記述があった」


「夢の中……」碧は口元を手で覆った。「やっぱり、菫ちゃんが……」


「藤咲慎二としても確証が得られぬまま八十島が逮捕され、内容については半信半疑だったようだ。藤咲家と彼の間では以前から女性関係の問題があったようで、逮捕後は一度も顔を合わせていないらしい」


「女性関係?」


 睨みつけるように碧が見ると、「八十島は亡くなった藤咲慎二の妻と以前に関係を持っていたらしい」と航はため息交じりに答えた。


「ひとまず僕は、明日にでもその八十島という男を訪ねてみようと思う。夢の中で襲われたという話が本当なのか確認したいし、ひょっとしたらそれ以上の何かを聞けるかもしれない」


 そこまで言って一度咳払いをした航は、「それで、君にはまた辛い作業をお願いすることになるんだが……」と言葉をつまらせた。


「紺野って人の生死を確認するんですね」


 席に戻った碧は、そのまま膝を抱え始めた。「菫ちゃんがおかしくなったのは、本当に病気のせいなんでしょうか。赤い石って一体何なんですか」


「さぁね。それについては藤咲慎二も分からないとしか答えなかった。そんな得体の知れないものを娘の脳内に埋め込もうなんて、まるで人体実験だよ」


「もしも夢の中で菫ちゃんに出会っても、私には止められる気がしないです。だってあの子は本物の超能力者なんですよ? 何でも出せちゃうし、やろうと思えば空だって飛べる。そんな子を相手にどうやって……」


「…………」


 その問題について話し合うのは、正直言って無意味かもしれない。航は肩を落とす彼女に向けてそう言いかけたが、考えた末にやめた。菫が近いうちに命を失うことを話したところで、また心に傷を負うだけだろう。


「とにかく行動するしかないよ。情報を集めることで新たに見えてくることがあるかもしれない」


「そうですよね……」


 顔を上げた碧は、無理に笑っていた。「ありがとうございます」


「どうってことないさ。悩み相談には慣れてるから」


 そう言って笑顔を見せた航は顔を俯かせると、静かにため息を漏らした。今の彼にできることと言えばただこうして碧に励ましの言葉を送ることや、未来まで彼女の命が繋がることを願うくらいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る