碧 6月27日

第58話

「こんばんは」


 航の夢を訪れた碧は暗い表情で頭を下げると、赤いアウトドアチェアに腰かけた。航はクーラーボックスを漁りながら「今日は珍しくソフトドリンクが追加されたんだよ」と言って缶ジュースを取り出した。


「ありがとうございます」


 缶を受け取った碧は、未だ冴えない表情で海を見つめている。


「さて。僕の方は少しばかり情報が得られたけど、まず君の方はどうだった?」


 航が切り出すと、碧は悔しそうに缶を握りしめた。


「亜美は、……やっぱり駄目でした。今日の昼間に葬儀が行われて、私も参列してきました」


「そうか」


 航は真面目な顔で頷き、「今井莉緒菜は?」


「学校に来てました。それも無傷で……」


「無傷? 五階から飛び降りたのに、骨折や傷の跡は一切見られなかったってことか?」


「はい。一体どういうことなんでしょうか」


 碧は歯を食いしばった。「亜美は亡くなったのに、あの子だけ助かるなんて……」


 航は憎らしそうに語る彼女の横顔を見ると、「まぁ、ひとまず飲めよ」と言って自身は缶ビールを手に取った。


「今井に会ってみて気づいた点はあるか?」


「気づいた点……」


 碧は俯いてしばし考え込み、「あの子は、夢で起きたことを覚えていませんでした」と言った。


「薄っすらと覚えてる感じもありましたけど、自分から強制的にシャットアウトしてるっていうか、……よっぽど怖かったんだと思います。菫ちゃんの名前を聞くだけで震えだしたり、亜美が死んだことを突然口走ったりして」


「なるほど」


 航は腕を組み、「こちらの世界でも今井莉緒菜は生きていたよ。てっきり大怪我を負ったと思っていたから、君の話を聞いて正直驚いている。そうなると現実での犯行もやはり視野に入れた方が良いんだろうか」


「私は夢の中の犯行だと思います。何か条件みたいなものがあるんじゃないでしょうか? 例えばナイフじゃないと傷つけられないとか」


「それもあり得ない話ではないが。どうにも説得力に欠けるな」


「方法さえ分かれば、次にまた狙うかもしれない今井さんを助けることができるかもしれないのに……」


「どうして標的は今井莉緒菜に限られる? 言いにくい話だが、藤咲菫は今夜にでも君を狙う可能性だってあるんだぞ」


 航の言葉に首を振った碧は、ようやく缶ジュースを口に含んだ。「私、亜美のお葬式で菫ちゃんに会ったんです。もう私のことは怒ってないって。大事なお友達だから手は出さないようなことを言ってました」


「彼女には気まぐれな要素もあるようだし、あまり真に受けない方がいいかもしれないよ」


「何だか、別人みたいでした。すっかり心を失っちゃったみたいに」


「心を失ったか。あながち間違いではないな」と呟いた航は、碧の持ちだした推論について考えていた。夢の中で人を殺めるための条件。そんなものが本当に存在するのだろうか。


 一方で碧もまた、航と同じことを考えていた。夢の中の殺人……。亜美の夢に入り込んだ菫は、そこで彼女を刺し殺した。亡くなった直後に夢の世界は崩壊を始め、雪のようなものが儚く舞い散った。あんなものは二度と見たくなかったが、碧はその光景を思い返したことで一つの閃きがあった。


「夢の中で怪我をしても、現実では傷を負わない……」


 彼女の呟きに対し、航は冷めた視線を寄こした。「何を当たり前のこと言ってるんだ?」


「そう、当たり前なんですよ!」


 立ち上がった碧は、彼の方へ歩み寄った。


「普通は怪我をする夢を見たって、実際には怪我をしないじゃないですか。むしろ、怪我をする方がおかしいんです!」


「なるほど、逆説的発想だな」


 航は人差し指を立て、「夢の中ではまずありえそうもない現象といえば、やはり――」


「夢を渡ることでしょうね」


 彼の言葉を途中で遮った碧は悔しそうに拳を握り、「今まで全然気が付きませんでした。他の夢から来た人は、相手に危害を加える事ができるなんて」


「今井莉緒菜は自ら飛び降りる選択をしたから、命を失わずに夢から覚めた。確かにそれなら話の筋は合う」


「きっと他の夢から来た人に直接危害を加えられないと、現実には影響がないんですよ。菫ちゃんもそこまでは把握していなかったのかも」


「となると、夢の中で彼女に致命傷を受けない事が唯一の対処法か」


「これで菫ちゃんを止められるかも……」


「いいや、そう簡単にはいかないだろう」


 ビールを煽った航は、大きく息を吐き出した。


「夢の中で殺されるなんて忠告を聞く者が果たしているだろうか。たとえ信じてくれたとしても、君や僕のように夢にいる自覚がないことには対処も難しい」


「それは、そうですけど……」


「それに僕らがこうして話し合っている間にも、彼女は新たな犯行に着手しているかもしれないんだ」


「えっ!? それ、どういうことですか!」


 航の言葉を聞いて驚愕したように目を開いた碧は、「菫ちゃんの起こした事件は六月二十五日が最後だって、葉瀬川さんが言ったんじゃないですか!」と声を上げた。


「まさか、未来が変わって……」

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