第57話

 匂いは徐々に強くなっていく。まさかこんな所で政府の関係者が野営しているとも考えづらいが、このかぐわしい香りは非常に魅力的だ。


 喉を鳴らした航は、杖の足場の確保も疎かにしながらその場所を目指した。


「ここだ。この辺りから匂いがするぞ!」


 やがて辿り着いた空間には太陽光が射し込んでいた。そこだけすっぽりと円形の平地が見られ、中央には一本の花が咲いている。


「この匂い……。なんだ、欲しくてたまらない!」


 花に呼ばれていると感じた航は、自然とそちらに顔を近づけた。見入るように眺めていた彼が花びらに向かってゆっくり手を伸ばしかけると、突然その腕を掴む者があった。


 振り返ると、白髪頭の男が立っていた。やせ細った身体にげっそりとした顔つき。口元には無精ひげを生やしている。年齢を推し量るのがおよそ困難なその男は、素早く腕を動かして彼の手首を捻った。


「痛い、痛いですよ!」


 航が声を上げると、男は彼を睨みつけながら「ここは私有地だぞ。無断で入ってもらっては困る」と言った。


「道に迷ってしまいまして……」


 惚けたふりをしつつ男に頭を下げた航は、「あなたはこの場所の管理をされている方ですか?」と尋ねた。


「だったら何だというんだね」


 冷淡に言い放って目を逸らした男は、愛おしそうに花を見つめている。


「さぁ、早く出て行ってくれたまえ。出口ならあっちだ」


 花とは真逆の方向を指さした男は、どう見ても政府の人間には思えない。航がもう一度花を見ると、その存在は彼に向かって手招きしているように感じられた。


「この花は一体何なんですか?」


 航が尋ねると、鬱陶しそうに彼を睨んだ男は「君には関係のないことだ」と言い捨てた。


 彼の様子から察するに、特殊な品種改良によって栽培された貴重なものなのだろうか。


 航の頭の中にふと、実験施設という言葉が過ぎった。あの花には何か秘密が隠されている。先ほど感じられた有無を言わさぬ飢餓感は、その影響によるものかもしれない。


 再び花への接触を試みると、男は焦ったようにそれを制しながら「あれに興味を持つんじゃない!」と怒鳴った。


「……取り憑かれるぞ」


 男の声は本気だった。


「こっちだ。出口まで送ろう」


 歩きだそうとする彼の腕を咄嗟に掴んだ航は、「あれは町で噂されていることと、何か関係があるんですか!」と声を上げた。


「この山には様々な噂があります。政府の実験施設、放射能漏れ、誘拐犯の監禁場所、それに、藤咲菫の亡霊が出るという話も――」


「菫の亡霊……?」


 男の腕は僅かに震えていた。「そんなもの、いるわけがないだろ!」


「あなたは今、菫と言いましたね? 藤咲菫について何かご存知なんですか?」


 藤咲菫の名前を聞いた途端、男は明らかに動揺していた。失踪事件について何か知っているかもしれない。いや、それどころか……。


「この山の管理者だとおっしゃいましたが、実際は何を管理されているんです?」


 航は男の正面に回り込んだ。「見たところ政府の関係者というわけでもなさそうですし、それらしき施設も見当りません。本当にあなたはここの管理者ですか? 証明書は? いつからこの土地のオーナーで?」


 あたかも三流記者のような煽り方だったが、それは以外にも効果を発揮したようだ。男はおよそ動揺した様子で目を逸らし、言葉に詰まっている。


「き、君は何を言ってるのかね」


 明らかな動揺……。この男はやはり何かを隠している。それも藤咲菫に関わることだ!


「七年前、藤咲菫がこの町から失踪してしばらく経った頃に、この山の噂は始まったそうです。おかしいとは思いませんか?」


 その場から離れようと歩き出す男を遮った航は、なおも推論を述べる。


「あなたはこの山に誰も近づけたくなかった。だから放射能漏れなんてデマを流したんじゃありませんか? 目的は何のためです? あの奇妙な花ですか? それとも――」


「私は何も知らん!」


 男は青ざめた顔で航を押し退けると、急いで歩き出した。バランスを崩しそうになりながらも何とか堪えた彼は、「この場所が藤咲菫の監禁場所だったという噂があるんです!」と怒鳴った。


「女性の声を聞いたという話も。あなたはこの山に藤咲菫を匿っているんじゃありませんか? お願いです、知っていることがあるのなら教えてください! 僕は一刻も早く藤咲菫を見つけ出さなければならないんです。このままでは僕の友人が夢の中で殺されてしまう!」


「夢の中……?」


 振り返った男は、航に迫って顔を近づけた。「君は今、夢の中で殺人が起きると言ったのか!?」


 焦りから思わず口にした言葉だったが、航の台詞に対して男は異常なほど反応を示している。


「夢の中で凶器を持った藤咲菫に襲われるんですよ」


「なんてことだ……。奴の言った通り、本当にあの子が?」


 男は頭を抱えながら、先ほどの花を見遣った。遠くから眺めてもその美しさは一目で分かる。今では薄っすらと輝いてすら感じられた。


「君は夢の中で菫に会ったのか! 彼女は今、どんな姿をしていた?」


 必死な様子で問いかける男に対し、航は首を振って応えた。「いいえ、残念ながら僕は藤咲菫の姿を見ていません。けれど友人が夢の中で出会ったと話しています。それも七年前の姿で」


「七年前……」


 航はこの男の素性について何も知らないが、それでも確かに夢の話に反応を示している。藤咲菫の事件に関与しているのは確かだ。


「彼女は今も犠牲者を出し続けています」


 航は水橋嶺二の事件も藤咲菫の仕業だと断定するように言った。真意のほどは確かではないが、口にした途端にそれが本当のことのように思われた。彼女の見せる悪夢は未だ終わっていない。表沙汰になっていないだけで、水面下で続いているのではないか。


「そんなはずはない! 菫はとっくの昔に死んだんだ。それなのになぜ……」


 地面に膝をついて嘆いた男は、息を荒げながら目を見開いている。


「死んだ!? それは一体どういうことです?あなたは七年前の事件について何を知っているというんですか!」


 航が肩を掴んで顔を覗き込むと、自身の震える手を眺めた男は、「私が、菫をこの手で殺したんだ」と告白した。


「菫は、……私の娘だ」

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