航 6月27日
第56話
身体の節々に痛みを感じている。久々の長距離移動に加え、歩き回ったせいだろう。
「……随分と鈍ったもんだな」
過去の世界ではどのような展開を迎えているのか。手遅れになる前に有力な情報を手に入れなければならない。
手早く準備を済ませた航は、ホテルの部屋を後にした。町の駅に到着すると昨日と同じタクシー運転手が手を振ってきたので、彼に頼んで昨日のうちに目星をつけておいた店まで案内してもらった。
「食い終わったら、また乗っていくだろ?」
目的の店に着いた途端に運転手は車から降りながらそう言うと、「じゃあ俺も食っていくかな」と店に向かって歩き始めた。
都会ではまずありえない光景に思われたが、後で別のタクシーを探すのも面倒なので、航としても悪い話ではなかった。
「ここは鯖が美味いんだよ」
古民家のような佇まいをした飲食店に入った運転手は航と向かい合って座ると、勝手に二人分の注文を済ました。個人的には鮭の方が好みなのだが。
「一人暮らしだと、魚なんて滅多に食わないだろ」
実家暮らしで妹が料理をしてくれることを航が話すと、彼は羨ましそうに舌打ちした。社会人になった男が未だ実家暮らしを続けていることは特に何も言われなかったが、それも足のせいだと運転手は思ったのだろう。本当は父親を一人で置いておくのが心配なだけだったが、この足では誤解されても仕方ない。
「妹さんはいくつだ?」
「来年にはもう大学生です」
「ほう、それじゃ受験生か。うちの娘と一緒だな!」
運転手はポケットから携帯電話を取り出し、「最近はあれだ、SNSってやつが流行ってるから。俺もこっそり娘のアカウントをフォローして覗いてんだよ」と言った。
彼が見せたのは女子高生が校内でアイドルの振付を真似ている短い動画で、その制服は沢渡碧と同じものだった。
「妹の友達が娘さんと同じ高校にいるらしいですよ」
航が動画を指さして言うと、運転手は嬉しそうに目を輝かせた。
「そうなのか! うちの娘だったら面白いのにな」
「あぁ、どうでしょうかね」
妹の友人の写真を見たことのある航にとっては動画の子が別人だとすぐに分かっていたが、あまりに嬉しそうに語る彼を見ていると否定できなかった。
「その学校って、過去にちょっとした事件があったと伺いましたが」
航が惚けたふりをして言うと、運転手は手を叩いて反応を示した。
「ひと昔前に起こった失踪事件だろ! 入学当初には他の親御さんが心配してたこともあったな」
「ほう、失踪事件ですか」
「藤岡さん? ……だったかな。そこのお宅の娘さんがある日突然消えちまったんだってさ。この辺じゃ事件も少ないから、当時は結構派手に報じられてたらしいわ」
運転手は続いて声を潜め、「噂では政府の核実験絡みで誘拐されたんじゃないかって話だよ。ほら、あの封鎖中の山あるだろ。あそこに監禁されてたとか、放射能を浴びちまって別の隔離施設に移されたとか、そりゃもう数え切れないほどの噂が飛び交ってるわけ」
「なかなかに曰く付きの山ですね」
航が興味津々に応えると、運転手は険しい表情を浮かべ、「あの山には絶対に近づいちゃいかんぞ」と言った。
「近頃は誘うような女の声が聞こえるなんて噂もあるからな。きっと娘さんの霊の仕業だよ」
「娘さんは隔離施設に移送されたのでは?」
「そんなのはただの噂だよ」
霊も噂に過ぎないのでは……と航は思ったが、それ以上は立ち入らないことにした。人は自分の信じたいことを信じる生き物なのだ。
食事を終えて飲食店を後にした航は再び車に乗り込むと、昨日と同様に藤咲宅の近くまで運んでもらった。
「――そんじゃ、また呼んでくれや」
颯爽と走り去るタクシーを見送った航は、敷地内に入って玄関の呼び鈴を鳴らした。何度か試したものの反応はなく、また留守のようだった。昼間は働いているのか。夜になれば帰宅する可能性もあるが、あまり遅くなると今度はホテルに帰れなくなる。
仕方なく一人で昨日と同じ喫茶店を訪れた航は、窓から見える噂の山を眺めながら、運転手から聞いた話を思い出していた。
核実験、放射能漏れ、誘拐、監禁……。
およそ現実的ではない言葉が次々と噂されるにも関わらず、肝心の正体は謎に包まれている。それに噂の中心は、やはりあの藤咲菫ときた。
「……行ってみるか」
昼間の時間を無駄にしてしまうくらいなら、噂の真相とやらをこの目で確かめるのも悪くない。
「藤咲菫の幽霊か。会って話してみたいもんだな」
先ほどの運転手には近づかないよう釘を刺されていたので、航は通りに出て別のタクシーを拾った。行き先を告げてみると、今回の運転手は何も忠告して来なかった。あの噂もタクシー業界全体までは行き届いていないらしい。
「ここから先は入れないな」
山の中腹付近で車を停めた運転手に支払いを済ました航は、外に出て周囲を眺めた。立て看板はあるものの、有刺鉄線のような物々しい仕掛けは見受けられない。
――この先、私有地につき立ち入り禁止。
看板の前まで行ってみると、行く手を遮るものは横に伸びたロープ一本ばかりで、それも所々が解れていた。
「こんなところに放射能があったら大問題だな」
看板をよそに敷地内へ進み始めた航は、鬱蒼と生い茂る林の中を歩き進んだ。町内と比べてひんやりとした空気の漂うそこは、驚くほど静まり返っていた。時おり風になびく木の葉の音や、鳥の囀りが聞こえてくる。道路も途切れ、ここでは登山道すら見当たらない。
航は目印を残しつつ慎重に歩き進んだが、少しでも油断するとすぐに方向感覚を失いそうだった。
「……甘い、匂い?」
どの程度登ったのか。辺り一面が白樺に覆われた地帯に迷い込んだ航は、風に乗って漂う香りの方へと誘われるように歩いた。
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