第53話
藤咲宅を離れた航はしばらく歩いた先に見えた喫茶店に入ると、今井と向かい合って席に座った。
「えっと、僕はホットコーヒーで」
今井の分と合わせて航が注文を済ますと、テーブルに肘をついた彼女は手の平の上に顔を乗せて彼を見つめ始めた。
「この暑いのに、よくホットなんて飲めますね」
「僕は年中ホットだから」
紙ナプキンで額の汗を拭った航は笑みを浮かべてそう答えると、「店の中は冷房が効いてるし、バランスを取るには丁度いいじゃないか」
「私はそもそも、熱いのは好きじゃないですけどね」
航が丸めた紙ナプキンに視線を遣った今井は、「それで、先輩は菫さんについて何を調べに来たんですか?」と言った。
「あぁ、そうだな」
航としてはあまり嘘をつきたくはなかったが、まさか夢の中で出会った女子高生を救うためにやって来たとは言えるはずもなく、「今井の話を聞いて、気になったというのが率直な気持ちかな」と答えた。
「後輩に殺人容疑をかけられたまま放ってはおけないし、何より純粋に藤咲菫失踪事件について興味が湧いたんだ。彼女が本当は生きているんじゃないかという君の意見や、七年前に起きた不可解な事件の被害者について。それらの足取りを辿れば何かが見えて来るんじゃないと思ってさ」
「先輩は事件の真相を突き止めるつもりですか?」
声を抑えて尋ねた今井は、次いで鋭い表情を浮かべた。「だから、あの家に……」
「ないない。今さら事件の真相を解明しようなんてつもりはないよ」
どこか思いつめた表情を浮かべる今井に対し、航は軽い口調でそう答えた。「少なくとも、自分の足で回れば納得できるかと思ったんだ。何も分からなくたって、それでいいと思ってる」
……嘘だ。
沢渡碧を救うために真相を探っていることを航は誰にも悟られたくなかった。それはあくまでも彼の直観的な判断に過ぎなかったが、誰かに嗅ぎつけられた瞬間に彼女の存在が永遠にこの世から抹消されてしまうような気がしてならなかった。
「……そうですか」
安心したように胸をなでおろした今井は、続けて前のめりになりながら「それじゃ、私にも協力させてください!」と言って彼に迫った。
胸元の広いTシャツから、下着が薄っすらと覗いている。思わず目を逸らした航はテーブルの上に置かれた水を掴むと、「協力? どうして?」と尋ねながらそれを飲んだ。
彼女はてっきり、過去の記憶をこれ以上掘り返したくないのかと思っていたが。
「先輩は興味本位だと言いましたけど、それは私のためでもあるんですよね? だったら私も協力したいです!」
上目遣いに彼を見つめる今井からは、ほんのりと甘い香りが漂っていた。どこの香水を使っているのか知らないが、ひどく食欲のそそられる匂いだ。
「そうは言っても、お前……」
次いで彼の手を握った彼女は、「私、この町のことなら地理とかも大体把握していますし、先輩の役に立てると思うんです」と言った。
「それに、二人で情報共有した方が効率的でしょ?」
効率的……。そう言われてしまうと会社員としては弱い。なるべく早く情報を集めてあの子に伝えてやりたいし、足の不自由な航にとっては願ってもない申し出だった。
「でも、良いのか? 今井にとってはあまり思い出したくない過去だろ?」
先日の話を思い出しながら航がそう言うと、惚けたように首を傾げた今井は「私、そんなこと言いましたっけ?」と答えた。
「言いましたっけって、お前……」
彼女の表情を観察した航は、碧の生還によって歴史的に多少の変動があったのだろうかと憶測を立て、余計なことは言わないでおくことにした。
「私、先輩と二人なら何も怖くないです。それとも先輩は、私が一緒じゃ嫌ですか……?」
彼を覗き込んだ今井の瞳は、あの魅惑的な色香を帯びていた。不意に訪れた強烈な妖艶さに航は目を逸らすことが叶わない。
言葉を発さずに航が首を振ると、可愛らしく微笑んだ彼女は「やった! じゃあ、決まりですね」と言って握った手に力を込めた。
「とりあえずの目標は、菫さんの父親からお話を聞くってことでいいですか?」
「それは僕がやるから、今井は藤咲菫が通っていた高校に行って情報を集めてくれないか。どんな些細な噂話でも構わないから、何か伝わっている話があれば知りたいんだ」
「分かりました。あそこは私の母校なので簡単に行けると思います」
「助かるよ」
ちょうどそこで注文した飲み物が届き、今井が手を離したことで彼はどこかほっとしていた。心臓は激しく脈打ち、まさかと思いつつ彼女を見遣ると、なぜだか胸が高鳴ってしまう。
グラスいっぱいに入ったアイスティーを手に取った今井はストローで勢いよくそれを吸い込むと、あっという間に飲み干してしまった。
「……もう終わっちゃった。もっと大きいサイズがあればいいのに」
「随分と喉が渇いてたんだな」
彼女の豪快な飲みっぷりに唖然とした航は、次いで口元に笑みを浮かべると「もう一杯注文するか? そのくらいは奢るよ」と言った。
「良いんですか!」
今井は嬉しそうに目を輝かせた。「だから先輩って好きなんですよ」
彼女がぺろりと舐めた唇は、なぜだか甘い果実を連想させた。齧ると甘いしぶきが飛び出し、それを吸いたくて仕方がないような衝動が彼の胸の内に込み上げてくる。そんな渇きにも似た感情が自然と湧いてきたことを自分でも不思議に思った航は、代わりに苦いコーヒーを流し込みながら表の通りを眺めた。
古びた家屋が並ぶ町は夕陽の光を浴び、すっかり橙色に染まっていた。
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