碧 6月26日
第54話
夢から目覚めた碧は気が重かった。カーテンを開くと、昨晩に自分が殺されかけたとは思えないほど平穏な景色が広がっている。
ひとまず学校へ行く準備を進めていると、その知らせは早くもやってきた。両親同士の仲が良かった亜美の母親は、被害にあった娘を発見するとすぐ警察に通報し、そのまま碧の母親にも電話を寄こしたようだ。
亜美が死んだ。
薄々分かっていたが、それでもいざ知らせを聞くとやはり全身が震えてしまう。あの時の光景が蘇り、亜美の死に顔が浮かぶと碧は吐き気を催してトイレに駆け込んだ。
嗚咽交じりに泣き続けていると、やがて母親がノックを寄こした。
「大丈夫? 今日は学校休もうか」
「ううん。……行く」
亜美の通夜が始まるまでの間に、碧には確かめなければならないことがあった。
さすがに食欲は湧いてこない。朝食を抜いて登校した碧は、二人のいない学校で自分がどのように過ごせば良いのかまるで分らなかった。今朝もクラスメイトの間で朝陽に関する噂話が飛び交っているあたり、亜美の訃報は知らされていないのかもしれない。
いずれは担任から説明を受けると思われるが、その際の不謹慎な賑わいを想像すると彼女は気分が悪くなった。
授業が始まる前に一年の教室を訪れると、菫が欠席であることを知って碧はほっと胸をなでおろした。殺意を向けられた相手と顔を合わせるのは、想像以上に怖いものだ。
意外にも今井莉緒菜は教室にいた。クラスメイトに呼び出してもらうと、やはりそれは夢の中でビルの五階から飛び降りたはずのあの子だったが、身体を見る限り傷一つ負っていない。
虚ろな表情をした彼女は、碧や菫と同じように学校生活が上手くいっていないように思われた。どこか遠巻きに接するクラスメイトたち。以前に教室を訪れた菫に対する態度と似通ったものがそこには感じられた。
人気のない場所に連れ出した碧が昨晩について尋ねると、どうやら莉緒菜は夢のことを覚えていないようだった。夢に関する記憶を保持する碧の方が圧倒的なレアケースではあったものの、前日の夢を(それもあれほど印象的な光景を)一切覚えていないというのも奇妙だった。
「もういいですか? 何が言いたいのか全然分かんないし」
立ち去ろうとする莉緒菜に向け、「菫ちゃんは、今日は来てないんだね」と碧が後ろから声をかけると、突然立ち止まった彼女は震えだした。
「……藤咲、菫」
血の気の失せた表情で振り返った彼女は碧の方へ迫ると、「遠山亜美さんは、今日は来てますか?」と声を潜めて言った。
「まさか、亡くなったなんてことは……」
「えっ?」
学校側にはそろそろ連絡が入る頃かもしれないが、まだクラスメイトへの通達すら済んでいない情報を彼女が知っているはずがない。
「すみません、私。不謹慎なことを……」
彼女は夢を忘れていない。むしろ頭に深く刻まれているにも関わらず、恐ろしい体験ゆえ無理やり記憶に蓋をしているのか。
「夢を……、見た気がするんです。そこでは遠山亜美と菫さんが一緒にいて……。あなたのお友達ですよね?」
「どうして亜美のことを知ってるの?」
「菫さんの交友関係についてはもちろん把握してますよ。沢渡碧さんや、先日亡くなった真鍋朝陽さんについても」
歪んだ笑みを浮かべた莉緒菜は、「非常階段で彼女が遠山亜美言い争いをしていた時、私は下の階で一部始終を聞いていたんです」と続けて言った。
「これで菫さんはようやく一人になれた。あの子は一人でいた方がより輝けるんです! 私だけがあの子を見守るお友達であるべきなんだから。
それなのに、あの子は私を拒絶した。だからぜんぶ燃やしてやったの。そうよ、私がいれば全然問題ないんだから!」
興奮して声を荒げた莉緒菜は、髪の毛を激しく掻きむしり始めた。
「……菫さん、ひどく怒っていたわ。私を水の中に引きずり込んで溺れさせようとした。それから嫌な臭いのする場所に連れて行かれて、そこには遠山亜美が――。
あれ? これっていつの話だっけ。……だめ、思い出せないわ。でも、怖い、怖い、怖い……! なんで? 怖いって感情がこんなにも焼き付いてるのに、肝心の内容はこれっぽっちも思い出せない。どうしてよ!」
彼女の頭の中では夢で味わった恐怖の感情が暴走していたが、その体験を忘れようとする強制力も同時に働いているせいか、漠然とした恐れのみが脳内を占めているようだった。
碧のように事実を素直に受け止めるよりも、彼女のような立場の方がよっぽどつらい仕打ちかもしれない。
「菫ちゃんには、もう関わらないで」
碧は独り言を呟きながらうな垂れる彼女を残し、その場を去った。
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