第50話

「何を心配していたの? 私の変化にも気づけず、あげたお花は枯らしてしまうし」


「それは……!」


 すっかり花の存在を忘れていたのは事実だった。枯れてしまったことに彼女が勘づいていることも。所詮は夢の話だと、碧は軽く考えていた。それが一体どういう理由で現実の世界に赤い花が現れたのか。


「私ね、夢の中で朝陽さんを殺しちゃったの」


 菫は電灯の光に反射するナイフの刃を眺めた。「そこに転がってる人みたいにお腹の辺りを刺したわ。何度も、何度も、何度も……! 碧さん、知ってた? 死にかけの夢って、とっても甘いんだよ」


「刺したって……。どうしてそんなひどいことを……」


 碧はふと、通夜の時に亜美から聞いた朝陽の遺体状況を思い出した。彼は、誰かに殺されたのかもしれない。


「それは夢の話? もしかしてあなたは、現実と夢を混同して本当に朝陽を……」


 要領を得ない碧に吹き出した菫は、「碧さんは長い間夢の世界を旅してきたくせに、何も分かっていないのね」と言って皮肉った表情を浮かべた。


「私が刺したのは、確かに夢の中の朝陽さんよ。あの人はまた正義感ぶって警察官の恰好なんてしちゃってたんだから」


「だったら朝陽が死ぬわけないよ。やっぱりあなたは、夢と現実の区別がつかなくなってる……」


 弱々しく主張する碧の言葉を聞いた菫は、呆れたように肩を竦めた。


「夢で傷を負えば、現実でも傷を負うのよ」


 ナイフを眺めながらうっとりした表情を浮かべた彼女は、血のついた箇所をぺろりと舐めた。


「ちょっとした条件があるみたいだけど」


「……条件?」


 碧はそれを聞いて思わず息を呑んだ。自宅の庭で枯れていたあの赤い花は、本当に夢の中で植えたものが現実に現れたというのだろうか。


「私は朝陽さんが死んでしまって、とっても悲しかったわ」


 不意に冷たい視線を碧に向けた彼女は、「碧さんの責任だからね」と言って刃こぼれした部分をへし折り、カチカチ音を鳴らしながら新しい刃を出した。


「そんなこと、あるわけない」


 碧は一度も試したことがなかった。試してみようとすら思わなかった。夢の中で他人に傷を負わせたり、ましてや殺人を犯したりすることなど。


「その人が明日死んだら、信じてくれる?」


 虫の息になった亜美を指さした菫は、碧に歩み寄った。


「駄目……。やめてよ!」


 碧の訴えを無視してナイフを構えた菫は、それを亜美の背中に容赦なく突き刺した。吐血した彼女は痙攣しながらその場をのたうち回ったが、しばらくするとピクリとも動かなくなった。


「亜美……? 亜美!」


 彼女の瞳から、徐々に生気が失われていく。


「見て、これよ! 綺麗でしょ? 舐めたらとっても甘いんだから」


 亜美の呼吸が止まると同時に始まった空間の溶解に、菫は頬に手を当てながらうっとりした表情を浮かべた。周囲には黄色い光の粒子が舞い、甘い匂いが漂っている。


「朝陽さんの夢もね、こんな風に景色がどろどろに溶けていったの。まるでお花が舞ってるみたいで素敵よね」


 地面に舞い落ちた粒子に碧が触れると、それは粘り気を含んだ樹脂のようだった。


「……助けなきゃ」


 碧は横たわった亜美の身体を運ぼうと考えたが、それは予想以上に重たく自分一人の力ではどうにもならなかった。


 彼女が必死になっておんぶしようする姿を見た菫は、ナイフの刃先を勢いよく壁に当てて折ると「どうして!」と叫んだ。


「どうして碧さんはその子ばっかり構うの! 大事なのは私でしょ? 私が一番じゃないの? 大切な秘密だって、今まで二人で共有してきたのに!」


「秘密……」


 その言葉に碧は胸の鼓動が早くなった。自分が菫を他人の夢に連れて行かなければ、彼女が夢と現実を混同することにはならなかったかもしれない。


 そもそも菫の夢を覗きになんて行かなければ……。他人の夢になんて入らなければ……。


「お待たせ。次はあなたの番ね」


 放心状態でうな垂れた碧から窓際に座る人物に視線を移した菫は、静かにそう言った。


 恐怖のあまり腰が抜けた莉緒菜は、菫が近寄って来ると声にならない悲鳴を上げつつ必死に立ち上がろうとした。


 何度も足を滑らせてその場に倒れ込んだが、どうにかして立ち上がることに成功した彼女は窓枠に背を預けながら菫を睨みつけている。


「莉緒菜ちゃん。私ね、あなたの気持ちが理解できた気がするの」


 カッターナイフの刃を愉快に出し入れしながら以前の放課後を再現する菫は、口元に笑みを浮かべていた。


「これはきっと、愛の仕業よね」


 縛られた両手を前に出して菫が近寄るのを拒む莉緒菜は、泣きながら左右に首を振っている。


「来ないで……来ないでよ……!」


「私たちって、本当は似た者同士かも」


 優しく微笑みかけた菫は、即座に厳しい表情に切り替えると「でも、私のを焼き殺したあなたのことは、どうしても許せない」ときっぱりした口調で言った。


「あ、あんなにひどい火事になるなんて思わなかったの! 許して……」


 窓枠に身体を押しつけた莉緒菜は、背後を振り返った。五階という高さに一瞬躊躇するような表情を浮かべたがそれも束の間のことで、素早く窓枠に足をかけた彼女はその勢いのまま窓から飛び降りた。


 菫はすぐさま窓に駆け寄ったが、下を覗くと呆れたようにため息を漏らしながら肩をすくめた。


「まぁ、あなたにはお似合いの最期かもね」


「私が、亜美を殺した……」


 遺体の前に座り込んだ碧は、自身の手のひらを眺めた。震える指先には彼女の血がべっとりと付着している。その温かさは、紛れもなく本物だった。


「碧さんは共犯者なのよ。もはや私たちは離れられない運命なんだから」


 窓際にもたれた菫は、溶解の進む壁をナイフで突いた。


「あとどれくらい持つのかしらね」


「一緒にしないでよ!」


 怒りを露わにしながら立ち上がった碧は、彼女と向き合った。


「私は、あなたとは違う」


「……そう。やっぱり碧さんも、私から離れていくのね」


 冷めた表情を浮かべる菫は、そろそろ夢の融解が終わりに近づきつつあることを察した。

「私に優しくない碧さんなんて、……いらない」


 殺気を感じ取った碧は、咄嗟に周囲を見回した。足元には亜美が流した大量の血液が血だまりを作っている。


 彼女は反射的に飛び込んでいた。


 どろりとした粘度の高い液体の中を必死に泳ぎ進んだ碧は、遠くに見える赤い光の糸を目指した。


 やがて水面から顔を出すと、衣服や身体に付着していた血液はすっかり拭い去られていた。

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