第49話

 その晩、亜美を自宅まで送り届けてから帰宅した碧はどうにも胸騒ぎがしていた。


 菫は夢と現実を完全に混同している。非常階段で朝陽と言葉を交わした際や、先ほどの葬儀場での振る舞い。


 彼女の中には朝陽と両想いであるという前提条件があった。その思い込みは以前よりも遥かに強く、明確化している。このままでは夢の世界に心を奪われ、彼女は現実に戻れなくなってしまう。


 何とかして夢の中の彼女に会うことができればとは思うのだが、近頃は夢を訪れても屋敷の中に入ることができず、そればかりか深い森が囲って近づくことすらままならない。森の中では奇妙な植物が蔓延り、茨がこちらに向けて襲いかかるような場面も見られた。


 時間をかけて深く分かり合ったはずの彼女は、すっかり変わってしまった。以前よりも分厚い殻を被り、獰猛な獣のように意思の疎通がままならない。


 去り際に垣間見た、あの恐ろしい目つき。 


 無駄だと思いつつ、碧は今夜も彼女の夢を訪れてみた。やはり屋敷の周辺には深い森が張り巡らされており先に進むことができない。まるで意思を持ったようにこちらに襲いかかる茨の鞭は、他者を排除したいという彼女の心の表れだろうか。


 仕方なく来た道を引き返した碧は、亜美が無事に眠りに就いたのかどうかがふと気になった。一人で夜通し泣き続けていないだろうか。


「亜美……」


 目についた池に飛び込んだ碧は、黄色に輝く光を目指して泳いだ。光が伸びているということはすなわち夢を見ているということだ。泣きつかれて眠ってしまったのだろうか。


 光の糸を掴むと、身体が引っ張られた碧はやがて水面から顔を出した。


 瞬間的に鼻につく、硝煙の匂い。


 周囲を見回すと、普段は着飾った人々で賑わっているはずの都会の街には誰一人として見当たらなかった。


 それどころか視界に映る高層ビルは大半が半壊状態にあり、地面は瓦礫の山となっていた。


「亜美! どこなの!」


 瓦礫に足を取られないように気を配りながら、碧は周辺を歩き回った。付近のお店は派手にガラスが割れ、店内は強盗にあったように荒れ放題になっている。何度呼びかけても亜美からの返事はなく、崩壊の衝撃で爆破を起こす建物まで見られた。


「一体、どうなってるの……」


 遠方にひときわ目立つ高層ビルがあった。それは彼女の夢を訪れた際にはどこに立っても必ず見られる象徴的な建物で、よく見ると周囲に比べて比較的損傷も少ないように思われた。


 ひょっとしたらあそこが住民の避難場所になっているのかもしれないと考えた碧は、道路を迂回しながら建物を目指した。


「…………」


 建物の真下に来た碧は、地面に赤い染みを発見した。血のように思われる真新しいその水滴は、点々と屋内へ続いている。


 赤い水滴を追って建物の内部を歩き進むと、突き当りのエレベーターの前で血痕が途切れていた。扉を開いて中に入ると、五階のボタンにべっとりと赤い液体が付着している。


 咄嗟にそのボタンを押して五階を目指した碧は、武装した誰かが待ち構えているかもしれないなどという考えに至るまでの心の余裕もなく、ただひたすらに狭い個室の中で亜美のことを心配していた。


 やがて扉が開くと、碧は周囲の様子を窺った。フロアの電気が落とされているのか、非常灯のみが地面を照らしている。


 打ちっぱなしコンクリートの無骨な造りをした廊下には血痕のような跡が見られ、それを追って右の道を進むとやがて先の方に灯りが見え始めた。


 僅かに開いた扉からは、光が漏れ出ている。


 立ち止まった碧が大きく深呼吸をしてからドアノブに手を添えると、その瞬間にとてつもなく大きな悲鳴が室内から響いた。


 急いで扉を開くと、体育倉庫のような空間が目の前に広がった。天井から裸電球が一つぶら下がっているだけで、室内は思いのほか薄暗い。


 正面奥の窓付近には、両手を縛られた女の子が地面にへたり込んでいた。碧が目を細めながら見ると、その子は菫の教室を訪れた際にしつこく声をかけてきた下級生だった。


 黒いシャツワンピースに革のベルトを巻き、光沢のある革靴を履いた彼女は地面に両膝をついたまま身体を震えさせ、立ち上がろうとするも上手くいかないといった様子だった。


「……えっ」


 縛られた女の子の頭上には、黒い光の糸が伸びていた。亜美の夢の世界の住人でもない彼女が、どうしてこんなところに……。


 彼女はひどく怯えた表情を浮かべながら、とある一点を見つめていた。碧がそちらを警戒しながら前に進むと、柱の影で向かい合う二人の人物が目に入った。奥側に立っているのが亜美で、こちらからも顔が伺える。そして、手前側に立っていたのは……。


「菫ちゃん……」


 制服姿をした菫は、両手で握りしめていた何かを勢いよく亜美のお腹に押し当てた。するとその直後には亜美の腹部から血が噴き出し、一歩退いた菫の手元は真っ赤に染めあげられていた。持っていたのはカッターナイフで、刃先から赤い血が滴っている。


「いやあぁぁぁ!」


 窓際の女の子が、甲高い悲鳴を上げた。動揺のあまり声を発することすらできない碧は、血生臭い匂いに吐き気を催した。


 亜美は口から血を流しながらその場に倒れ込んだ。彼女の足元には血だまりができ、刺された箇所からは大量の出血が見られた。


「……碧さん?」


 腹部から抜き取ったナイフを制服のスカートで拭っていた菫は、碧の存在に気づくと困惑の表情を浮かべた。「どうして、あなたがここに……」


 恐る恐る亜美の元に歩いていった碧は、倒れた彼女を抱きかかえると菫を睨みつけ、「何てことするの……」と静かに怒りを込めて言った。亜美は腕にもいくつか外傷を負っており、それを見た碧はようやく自分が追って来た血痕の正体を知った。


「だって、この人が……」


 片手にナイフを握りしめたままの菫は、碧に怒られて悲しそうな表情を浮かべた。「あなたには見せたくなかったのに」


「夢の中だからって、何をしてもいいわけじゃないんだよ!」


 碧が怒鳴ると、しょんぼりしたように俯いた菫はぶつぶつと独り言を呟き始めたが、やがて顔を上げると突然勝ち誇ったように笑みを浮かべ、「碧さんだって、人のこと言えるのかしら?」と言った。


 それはまるで、別人のように冷たい声音だった。「他人の夢を勝手に覗き見て、人の弱みを握ろうとしていたくせに」


「私はそんなこと――」


 碧が言い返そうとすると、「近頃私の夢に何度も入ってきて、探りを入れていたのは知ってるんだからね」と菫は続けて言った。


「それは……。菫ちゃんと話がしたくて」


 碧は内心で気づいていた。


 昔から夢を渡るたび、他人がひた隠しにしている傷を覗き見てどこか得意になっていた自分がいたことを。それをずばり彼女に言い当てられ、動揺している自分がいることを。


「お話をするなら夢の中でなくてもできるし、現実の私に声をかけてから来てくれれば、私だって出迎えぐらいは行ったのにね」


 意地悪な笑みを浮かべた菫は、さらに続けた。「碧さんはこっそりと覗くのが大好きだものね。傍観者を気取って、当事者にはなろうとしない。あなたは周りの人から蚊帳の外にされていたんじゃない。自分から好んでそうなっていたのよ」


「違う! 私は本当に菫ちゃんが心配で……」


「心配ですって!?」


 碧の言葉を聞いた菫は、高らかに笑い声を上げた。

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