第五部

碧 6月24日

第48話

 朝陽が死んだ。


 夢でも妄想でもなく、彼は現実にこの世を去った。亜美は学校を欠席し、クラス内は彼の話題で持ちきりになっていた。


「さっき職員室で聞いたんだけど、あいつ刺されたんだって!」


「家族仲があんまり良くなかったらしいよ」


「じゃあ、親が犯人説とか?」


 面白おかしく噂話を繰り広げるクラスメイトたちは、同級生が亡くなったというのにどこか浮足立っていた。まるで遠足先の話題でも口にするように。


「ねぇ、沢渡さんって真鍋くんとよく一緒にいたよね? 付き合ってたってほんと?」


「いや、私は……」


 碧が困ったように言葉を詰まらせると、「違うよ。真鍋くんの彼女は三組の遠山さんでしょ?」と別の生徒が口を挟んだ。


「え、じゃあ沢渡さんは?」


「んー元カノとか?」


「そうなの? じゃあ三角関係ってやつか!」


「そこんとこ、実際はどうなわけ?」


 クラスメイトの執拗な問いかけに碧が俯いていると、前方の扉から彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。視線をやるとそこには菫が立っており、手招きしながら彼女を呼びつけている。


「おっ、すげー美人!」


「おい、やめとけよ。あれって噂のやばい女だろ」


「沢渡って、あれの知り合いなの?」


 クラスメイトの視線が菫に集まり始めたので、足早に扉の方に歩いた碧は彼女の手を取って教室から離れた。


「どこまで行くの?」


 碧が階段の踊り場まで来たところで手を引いた菫は、向き直った彼女の肩を掴み、「ねぇ、朝陽さんはお休み?」と尋ねた。


「菫ちゃん……」


 碧は目を逸らしながら、「朝陽は、来ないよ」と答えた。


「どうして? お腹でも壊したの?」


 顔を寄せる彼女は、徐々に息を荒げ始めた。


「学校のみんながね、朝陽さんは死んだって話してるの。ひどいと思わない?」


 碧が黙ったままでいると、菫は続けて笑みを浮かべた。「放課後になったら、朝陽さんのお見舞いに行かないとね。彼のお家まで案内してよ」


「本当だよ」


「え?」


 菫が首を傾げると、碧はもう一度小さな声で「みんなの話は本当だよ」と言った。


「朝陽は死んだの。たぶん明日にはお通夜になると思う」


「……うそ。嘘よ。どうせまた、莉緒菜ちゃんが嫌がらせしてるんでしょ! 碧さんまで、あんな子の冗談を真に受ける気なの?」


 菫は焦った様子で周囲を見回し、「出てきなさいよ!」と怒鳴り始めた。


「菫ちゃん、落ち着いて!」


 彼女を背後から抱きしめた碧は、気づけば涙を流していた。幼い頃からの友人が、こうもあっさり死んでしまうとは……。


「泣かないでよ、碧さん」


 泣きじゃくる碧に寄り添った菫は、「私がいるじゃない」と言って手を握った。すでに始業ベルが鳴り始めていたが涙は一向に止まってくれず、碧はいつまでも教室に戻ることができなかった。


 翌日。碧が通夜に訪れると朝陽の親族のそばには亜美の姿があった。涙で腫らした顔、乱れた髪。制服姿で静かに俯く彼女はまるで抜け殻のようだった。


 碧が声をかけると、顔を上げた亜美はすでに乾ききっているはずの瞳から涙を垂らし、彼女の胸に飛び込んで声を上げながら泣き始めた。


 碧が背中を擦ると、徐々に呼吸が落ち着き始めた彼女は大きく深呼吸をしたのち、ゆっくりと口を開いた。


「朝陽ね、お腹に、刺された跡がいくつもあったって。今は警察の人が調べてるところだけど、誰かに殺されたのかもしれないって……」


「殺された……」


 何と答えてやれば良いのか、碧はただ頷きながら彼女の話を聞いていた。


 警察は他殺として捜査を開始したそうだが、昔から就寝時に鍵をかける習慣のあった朝陽は、その晩も自室の扉と窓をしっかりと施錠して眠っていた。母親が何度声をかけても起きないので仕方なくベランダ側から部屋を覗くと、カーテンの隙間から血に塗れたシーツが見えたらしい。


「じゃあ、犯人はどうやって中に……」


 碧がそう呟くと、亜美は必死な表情で彼女の二の腕を掴んだ。「違うもん! 朝陽は絶対に、自殺なんてする人なんかじゃ……」


 言ったそばからうな垂れた彼女は、再び泣き崩れた。碧が抱き寄せて背中を擦っていると、二人に向かって近づいてくる者があった。


「菫ちゃん……」


 碧の声に顔を上げた亜美は、菫に向けて鋭い視線を送った。


「このたびはご愁傷さまです」


 頭を下げた菫は亜美に近寄りながら「亜美さんの気持ち、私よく分かります」と言って彼女の手を握りしめた。


「自殺だって聞いて、ひどくショックを受けたの。とっても繊細な人だったから」


「あなたに何が分かるって言うの」


 手を払った亜美はそのまま彼女に詰め寄り、「私たちに散々迷惑をかけたくせに!」と怒鳴った。


「迷惑?」


 彼女の言葉に首を傾げた菫は、「迷惑をかけたのはあなたの方でしょ?」と言って口元に笑みを浮かべた。


「わがままなあなたに碧さんがどれほど気を遣っていたと思うの? 今だってあなたは碧さんの気持ちなんて一切考えず、自分のことばかり。碧さんだって泣きたいのよ? 彼を好きだった人が自分だけだなんて思わないで」


「あんたに言われたくないわよ!」


「ちょっと、二人とも……」


 彼女らの言い争いを遠まきに眺める大人たちは、こそこそと噂話を始めていた。大人もみんな、あのクラスメイトたちと同じなのだ。自分には関りのないことだと遠くから嘲っている。


 そして、私も……。


「私にとっても朝陽さんは大切な存在だった。愛し合った仲だもの。当然でしょ?」


 自慢げに話す菫の頬を勢いよく平手打ちした亜美は、「あなたは付き纏ってただけじゃない!」と怒鳴って掴みかかった。


「本当はあなたが逆恨みで殺したんでしょ! 他に誰がいるっていうの!」


「亜美ちゃん、それはさすがに言い過ぎだよ」


 碧が窘めようとするも、興奮した亜美は続けて菫の身体を突き飛ばした。


「帰って! 帰ってよ!」


「……痛いわね」


 地面に尻もちをついた菫は、殺気立った目で彼女を睨みつけながら立ち上がると、スカートについた埃を払った。


「それがあなたの本心よ。私に朝陽さんの心を奪われてもなお、嫉妬に囚われて手放すことのできなかった卑しい女なの」


 菫は髪を整えながら振り返り、「帰れば良いんでしょ」と言って歩き始めた。


「さぁ、行きましょう。碧さん」


「菫ちゃん、待ってよ!」


 碧が後を追おうとすると、亜美は彼女の腕を力一杯に掴んだ。


「駄目だよ、碧! あんな子に関わったら、あなたも不幸になっちゃう!」


「でも、亜美ちゃん」


「お願いだから、今は私のそばにいてよ!」


 泣きながら懇願する亜美を胸に抱き寄せた碧は、彼女の背中を擦り始めた。二人のやり取りを眺めていた菫は、拳を握りながら険しい表情を浮かべている。


「朝陽さんだけじゃなく、碧さんまで……。許さない。絶対に許さないんだから!」


 怒りを露わにして立ち去る菫の後ろ姿を見送った碧は、彼女の凍りつくような空気に思わず身震いをした。

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