第47話
翌朝に目を覚ました菫は、ベッドから起き上がると全身鏡で自身の姿を確認した。
「私って、ほんとに綺麗」
携帯電話には碧からのメッセージが届いていた。彼女と顔を合わせたくなかった菫は学校を欠席する旨を伝えると、一階に下りて庭を眺めた。
菫色の花があった場所を見つめながら、彼女は脳内に響く声と対話をした。
(分かっているね?)
「いちいち言わないで」
菫は花の存在を身近に感じていた。
「いつか、……仕返ししてやるんだから」
(そう。あの女は私たちにひどいことをした)
「菫? 随分と早起きだね」
ベランダの窓から顔を出した父親は、彼女の元へ歩いて来ると肩に触れながら「あの花のこと、まだ引き摺っているのか」と言って塀を見遣った。
「いいえ。もう過ぎたことだもの」
振り返って父親を見上げた彼女の表情は、どこか挑発的だった。
「パパ。私、寝不足なの」
彼女はこめかみに手を遣り、「こんなお肌じゃ学校に行けないわ。だから。もう一日休んでもいい?」
「寝不足?」
父親は眉間に皺を寄せたが、結局は折れて彼女の頭をなでた。「ひとまず、朝ごはんにしよう。何か食べたいものはあるかい?」
「そんなの何でもいいわよ」
冷ややかに答えて歩き出した菫は、父親の顔も見ずに部屋に入った。
二階の自室に戻ると携帯電話にメッセージが届いており、どうせ碧からの返信かと思いながら受信箱を開くと、送り主は朝陽だった。
「朝陽さん……」
メッセージの内容は単に体調を気にかけるものだったが、彼女はそれを読むとすぐ制服に着替え始めた。
「学校は休むんじゃなかったのか?」
リビングで朝食の準備をしていた父親は、制服姿で廊下を歩く彼女を呼び止めると、後を追って玄関に向かった。
「やっぱり行くわ。パパもその方が良いんでしょ?」
「そ、そんなことは……」
革靴を履いた彼女は、背後で言い訳を始める父親を無視して外に出た。
学校に到着した彼女は脳内の声に唆されるまま行動を起こしたが、またもや彼は本心を語ってくれなかった。それどころか大事な身体に傷まで負わされ、ひどく悲しい思いをした。
(許さないわ……。)
でも、本当に彼が悪かったの?
寝室に一人籠った菫は、自身の内に芽生える葛藤と戦っていた。
(あの男は、私に傷をつけた!)
こちらが強引に迫ったせいではないの?
(次に会ったらどうしてやろうか……。)
もし会えたら、謝りたいな……。
横になって考えに耽っていた彼女は、やがて疲労感を覚えて目を閉じた。
「…………」
夢の中で覚醒した菫の脳裏に、ふと不安がよぎった。
彼は今日のことで私のことを嫌いになったんじゃないかしら?
考えた途端に冷や汗が伝い、鼓動が早まっていく。
嫌よ。彼を失うなんて、そんなの考えられない!
「やっぱり、謝らないと」
居てもたってもいられなくなった彼女は、すぐさま水場を探して夢を移動した。
朝陽の夢を訪れた菫は、昼間の件を謝罪すべく彼を探し回った。町の構造は現実世界と似たようなもので、住宅地を走った彼女は時間をかけてようやく彼を発見することができた。
今回の姿は交番勤務のお巡りさんだった。青い制服姿をした朝陽は迷子の小学生と共に親を探していたようで、今まさに母親と再会したところだった。
「朝陽さん」
「おう、菫か」
人助けがひと段落したところで菫が声をかけると、振り返って帽子を取った朝陽は手を振って応えた。柔らかな笑みを浮かべる彼は菫の頭を優しく撫で始め、「困ったことがあれば、なんでも言えよ」と言った。
やっぱり彼の気持ちは、私に向いている。
心底幸せな思いがした菫は続けて彼を見つめ、「私を選んでくれますよね?」と尋ねた。
そうよ。朝陽さんは私のことが一番大切なんだから。
だが、彼女がその言葉を口にした途端に目の前の景色が一変した。非常階段の最上部に立った朝陽は険しい表情を浮かべ、彼のすぐ隣には亜美の姿があった。
「お前には付き合ってらんねーよ」
朝陽は冷たくそう言い放つと、隣にいる亜美を抱き寄せた。
(許せない……。)
どうしてよ……。
(弄んだのね……!)
どうして、私の愛を理解してくれないの……!
脳内に響く声と心を一つにした菫は、気づけば手にカッターナイフを握っていた。
“カチカチカチ……。”
その音の響き、感触、痛み……。彼女の脳はすべてを記憶していた。
(私のものにならないのなら……。)
「あんたなんて、……死んじゃえ」
朝陽の懐に素早く飛び込んだ菫は、腹部に向けてカッターナイフの刃を突き刺した。それは恐ろしいほどに実感がなく、彼女は怒りに任せて同じ場所を複数回に渡って刺し続けた。
気づけば隣にいた亜美の姿は消え失せ、床の上には血だまりと共に横たわった朝陽の姿があった。熱で溶かしたチーズのように溶解を始めた非常階段には、橙色の雪が降り始めている。
手のひらに舞った雪をひと舐めした菫は、その甘美な味わいに心踊った。
菫は片手にナイフを握りしめたまま、ゆっくりと階段を下り始めた。心臓の鼓動とともに脈打ちながら震える手には、彼の血の熱気が感じられた。
朝方に寝室で目を覚ました菫は、全身鏡に映る自身の姿を眺めた。身体を動かしているのは私自身のはずなのに、もはや私は私ではなかった。
脳内に響く声。そして、私。その二つが今まさに共存を始めたのだ。
「私たちって、ほんとに綺麗ね」
鏡の中に映る彼女は、不敵な笑みを浮かべていた。
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