菫 6月22日

第46話

 莉緒菜を見事追い返した頃から、菫は毎晩のように植物の夢を見ていた。テラスで育った花々は次第に室内を埋め尽くし、彼女のベッドの周りは植物で覆いつくされた。


「とってもいい香りね」


 夢の中で植物が繁殖するにつれ、彼女の中でおよそ淫らな気持ちが高まっていくのが感じられた。自然と異性を求めている自分にどこか戸惑いつつ、フェロモンの分泌を止めることができず彼女の色気は増していくばかりだった。


 学校では幾人もの男性からアプローチを受けるも、納得のいく相手は見つからなかった。


「やっぱり朝陽さんが良いのに……」


 悶々とした感情を秘めた菫は、徐々に理性を抑えられなくなっていった。気性が荒くなり、欲しいものが手に入らないと碧に八つ当たりをした。


 わがままを言っているという自覚はあるものの、それを制御する術がなかった。まるで感情を抑制する機能が故障してしまったように感じられた。


(あなたは我慢をし過ぎていたの)


「……私は、欲望のままに生きるべきよ」


 父親は執拗に夢の話を聞きたがった。初めは言われるままにカウンセリングを受けて夢の内容を語っていたが、それも徐々に面倒になり始めた。


 時おり聞こえる親密な声に従い、彼女はやがてメンタルケアを拒否するようになった。


 そんなある日、事件は起きた。


「……聞こえる」


 夜になって菫が眠りに就こうとしていると、どこからかすすり泣く声が聞こえてきた。


 窓辺に寄った菫がカーテンを開くと、普段ならば庭の一角は暗闇に覆われているはずなのに、今夜は花壇がはっきりと見えていた。


 花壇は赤い光に包まれていた。


 窓を開けると焦げた臭いが鼻につき、周囲には煙が広がっている。


 急いで階下に駆け下りた菫は裸足のまま庭に飛び出て花に近づいたが、塀に沿った花壇の一帯にはすでに火の手が回っており、すべてが燃やしつくされていた。


「いやっ……。駄目よ!」


 地面に膝をついた菫は、燃えさかる炎を眺めていた。脳内には今まさに命を奪われようとしている花々の悲痛な叫びが響き、彼女は頭を抱えながら大声で泣いた。


 大事に育ててきた花々。なかでも特別可愛がってきた菫色の花が原型を失い、変わり果てた姿になっていくのを見つめながら菫は拳を握りしめた。


「……許さない。絶対に許さないわ!」


 塀は煤で汚れ、土の上にはかつて花だったものたちが散り散りになって広がっていた。


 その日を境にして、夢の中の花々は気持ちが昂っていた。菫と仲良く戯れていたかと思えば突然身体に向けて蔓を伸ばし、腕に傷を負わせたり首を絞めたりした。


「何するのよ!」


 力一杯に振り解くと、それはやがて離れていった。そういったことが日を重ねるにつれて頻繁に起こるようになった。


 これまでは夢の中にあるもの全てを掌握することができた菫だったが、植物の繁殖だけは彼女の意思に関わらず勝手に進んでいる。


 それどころか、彼らが身体に纏わりついたり傷をつけたりする行為を彼女は制御できなくなり始めていた。時にはひどく暴れ回ることもあるため、それらの血気盛んな者たちに毎夜悩まされた。


 現実の世界でも日毎に空腹感や渇き、倦怠感が増していった。


 何かが起こりつつある。


 その漠然とした予感は徐々に焦燥へと変わり、菫は恐れを感じていた。


 植物が、私の夢を侵していく……。


 自分が自分でなくなっていくような感覚。それが形となって現れたのは、さらに数日が経った頃だった。


 寝室のベッドに横たわり、ぼんやりと過ごしていた菫はうつらうつらしながらあと少しで夢の世界に旅立つかもしれないと感じていたが、正直なところ近頃はあまり行きたいと思えなくなっていた。


 彼女が描いた夢の世界は、今では植物に支配されて自由が利かなくなっているように感じられたからだ。


 あぁ、でも眠ってしまいそう……。


 菫が眠りに落ちかけた瞬間、ベッドの隣にあるスタンドライトがちかちかと点滅を始めた。鬱陶しいので消してしまおうと電源を押したが、電気は点滅を繰り返している。


「どうして……」


 点滅が終わって電気が完全に消えると、部屋中が真っ暗闇になった。


 ぎいぃ……。ざざっ……。ざざっ……。


 扉の方から何かを引き摺るような音が聞こえてくる。


「なに?」


 手探りで携帯電話を見つけた彼女がライトをつけると、寝室の扉がいつの間にかあの黒い扉に変わっていた。室内もどこか異様な雰囲気に包まれている。


 扉の縁には相変わらず蔦が絡まっていたが、よく見るとそれらは無残に引きちぎられ、扉は薄く開いていた。


 ママ……。ママなの……?


 扉の隙間を覗き込んだ菫は、思わず目を見開いた。中はびっしりと木の枝で埋め尽くされており、それらは互いに捻れあいながら波打つように地面に伸びている。


 ライトの光を足下にやると、木の枝は扉の付近から床いっぱいに広がっていた。それを目で追った彼女は、いつの間にか窓辺に立ってこちらを見つめている存在に気づいてぞっとした。


「だれ……!」


 線の細い体にワンピースを纏ったそれがこちらを見つめる視線は感じられるものの、顔の形がどこか妙だった。髪は逆立ち、わずかに揺れている。


 きっとママだわ。また私を怖がらせに来たのよ!


 思い切って携帯電話のライトを窓辺に向けた菫は、その者の姿を見て悲鳴を上げた。


 その顔は、人の顔ではなかった。


 首から下は確かに人の姿をしているが、顔の部分だけは巨大な花の形をしていた。それは彼女が普段から好んで水をやりながら世話をしていたあの花だった。


 すっかり燃えてしまったはずの、菫色のお花。その花びら一枚一枚が呼吸するように揺らめいている。


 お花の足元を照らすと、床に広がった木の根と繋がっていた。まるでそこから生えてきたように足の裏には無数の細い根が伸びている。


(……になりたい)


 脳内に直接響くを聞いた菫は、背筋に悪寒が走った。じっと睨みつけていると花の形は徐々に変化を見せ始め、収縮を繰り返したそれは人の顔の形になった。


 奇妙なことに、その姿は菫の顔と瓜二つだった。


「な、何になりたいの?」


 恐る恐る菫が問いかけると、ゆっくりと右手を動かしたそれは彼女を指さした。


(あなたと、一つになりたい)


 足元から伸びた木の根は地面を這いずり、ベッドをのぼって菫の腕に絡みついた。


「ひぃっ!」


 必死になって根を払った菫は、擦りむいた腕から滴る血液を見てさらに恐ろしくなった。


 入口を見ると、扉が元に戻っている。ベッドから飛び降りて廊下に出た彼女は、転がり落ちるようにして階段を降りた。


(どうして逃げるの? あなたが望んだことなのに)


「ついて来ないでよ!」


 二階からはもう一人の菫が見下ろしており、地面を這いずるような音と共に階段を下ってくる。それが先ほど襲ってきたあの木の根だと思うと、菫は頭がパニックになった。


 逃げなきゃ……、逃げなきゃ……!


 自分は夢の中にいるのではないかと直感した菫は、ふと目に付いたトイレの扉を開くと素早くレバーハンドルを引いた。


 渦を巻いて吹き出す水の中へ頭から飛び込んだ菫は、底のない暗闇に落下しながら彼女を思い浮かべた。やがて天から伸びる水色の光を見つけると、それを目指して必死に泳ぎ進む。


 糸を掴んで地上に顔を出すと、目の前に飛び込んできたのは一面の冬景色だった。


「碧さん……」


 屋根の上に着地した菫は、そこが碧の自宅であることに気づいた。二階の窓を必死に叩き続けると、しばらくして中から彼女が顔を出した。


 部屋に飛び込んだ菫は呼吸が乱れ、恐怖のあまり言葉が上手く出てこなかった。植物の仕業であることを伝えようとしたが、その時に再びあの声が脳内に響いた。


(騙されないで! その女はひどい人なの)


「あぁ、駄目よ。話しかけないで!」


(その女は、あなたのあげたお花をどうしたと思う?)


「えっ?」


 ふらふらと立ち上がった菫は、窓の方に寄って耳を澄ました。


 お花……? あの赤いお花のこと? 碧さんはきちんと水をやるって約束してくれたわ。


(その女は水をやってはくれなかった。赤い花は、すでに死んでいる)


「嘘よ……」


 窓を開いた彼女は窓枠に足をかけると、一瞬のうちに暗闇の中へ飛び出していった。その足で庭に咲いた花を探すと、植えたはずの場所には雪が積もっていた。


 嘘よ! 碧さんが約束を破るなんて……。


 雪を掘り返した菫は、すっかり萎んで枯れてしまった赤い花を見た。


「嘘つき……」


 拳を握った彼女は、地面に向けて何度も叩きつけた。冷たい地面で指を擦りむいた彼女の血が、雪を赤く染めていく。


(さぁ、戻っておいで)


 脳内の声音がこの上なく優しい響きに思われた彼女は、立ち上がって吹雪の中を歩き出した。猛烈な寒さに裸足の足は感覚を失っていく。


 気づけば彼女は植物に囲まれていた。そこは彼女の寝室で、向かいでは自分と瓜二つの存在が笑みを浮かべていた。


「ただいま」


 菫が呟くと、向かいに立つ彼女は腕を伸ばした。それは全身を覆う蔦となり、幾重にも取り巻いた集合体がやがて球体となった。


 内部でわずかに目を開いた菫は、輝く花々の景色を見た。それは自身が育てた花たち。風に揺られ、水浴びをしながら心地良さそうに過ごす花たち。


 あぁ。私もその中に混ぜて……。


 彼女がこめかみにキスをすると、その瞬間に菫は目の前が真っ白になった。

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