航 6月26日

第51話

「これはまた、信じがたい話だな」


 直前に起こった出来事を碧が語り終えると、椅子に腰かけた航はクーラーボックスから缶ビールを取り出して勢いよくをそれを煽った。不思議と何の味も感じられない。


「変なことを聞くようだけど、今日は何月何日かな?」


 航がそう言うと、碧はきょとんとした表情を浮かべながら「六月二十五日です」と答えた。


「それが何か?」


「いや、ちょっとね」


 顎に手を当てた航は、しばしの間考えに耽った。真鍋朝陽の遺体が自室で発見されたのが七年前の六月二十三日の朝方。扉と窓には鍵が掛かっており、凶器も見つかっていない。他殺だと言い切るのは極めて難しい状況だった。


 そして、彼の後を追うようにして遠山亜美が亡くなったのが六月二十六日。こちらも証拠不十分で自殺と断定されている。一連の犯行は本当に藤咲菫による夢の中での犯行だというのか。それとも何らかの方法を用い、現実の世界で……。


「それにしても、本当にこんなことが……」


「簡単には信じてもらえないですよね。でも、私はこの目で見たんです! 亜美がお腹を刺されて、殺され……」と言い切る前に、碧は嗚咽交じりに再び泣き声を漏らした。


「君の話を信じてないわけじゃないよ」


 航は彼女が落ち着くように優しい口調で語りかけた。「むしろ、想像していた事態が最悪の方向で実現してしまったことに驚いているんだ」


 彼の言葉の意味を図りかねているのか、碧は黙って首を傾げている。


「偶然にも僕は、図書館で事件について調べていたんだ。二人の死は新聞にあった通りのようだが、まさか君からその話を聞くことになるとはね」


 航は続けて自分に言い聞かせるように、「ひょっとして、僕と関わりを持ったことで彼女の行動に何らかの変化が……」と呟いた。


「ちょっと待ってください!」


 声を上げた碧は眉間に皺を寄せ、「図書館ってどういうことですか」と言った。


「朝陽が死んでからまだ二日しか経ってないし、それに、亜美が死んだとは限らないじゃないですか!」


 混乱しながら訴えかける彼女を見た航は、「まぁ落ち着けよ」と答えてクーラーボックスを漁った。


 相変わらずアルコールばかりだったが、緊張を和らげるのにはちょうど良いかと思い、彼はその中の一つを掴んで彼女に手渡した。


 しぶしぶそれを受け取った碧は、睨むように航を見つめている。


「やれやれ」


 話を急くような彼女の姿勢に肩を竦めた航は、順を追って説明を始めた。


 昼間に図書館で調べていた事件について。警察は藤咲菫を容疑者として捜査を進めたが、失踪した彼女をとうとう見つけることはできなかった。またそれらが航にとっては七年前の出来事であり、過去と現在の日付が偶然にも一致している。


「七年前って……」


 耳を疑うような彼の話に碧は困惑していた。


「菫ちゃんは失踪したんですか? どうして!」


「その理由は分からないよ。七年経った今も、未だ見つかっていないからね」


 航は彼女を見つめ、「君は今井莉緒菜という名前を聞いたことはあるか?」と尋ねた。


「さぁ。聞いたことないですけど……」と答えた碧は、その直後に先ほど菫が口にした台詞を思い出した。


「……りおなちゃんって、呼ばれてた子がいたんです。その子も別の夢から来てたみたいで」


「別の夢から!?」


 航は目を見開き、「その子はどうなった!」と続けて尋ねた。


 その時の様子を思い返した碧は、思わず身震いしながら「あの子は菫ちゃんに両手を縛られて、今にも襲われそうになっていました」と答えた。


「窓際に追い詰められて、逃げようと外に……」


「飛び降りたのか! 確か、五階だったよな?」


 航は早口に質問を投げかけながら、青ざめた表情を浮かべていた。七年前の事件が新聞に書かれていた通りならば、今井莉緒菜が死ぬはずはない。現に彼は未来の彼女と会話し、同じ職場で働いている。それが狂った要因があるとすれば、恐らく……。


「あの子も事件の被害者なんでしょうか」


 椅子の上で膝を抱えた碧は、悲しげに俯いた。「菫ちゃんは、あんなことをする子じゃないのに……」


「この自殺騒動は、六月二十五日をもって最後となった。今井莉緒菜は犠牲者ではなかったはずだが、記録には代わりにもう一人だけ、犠牲者の名前が載っていたんだ」


「誰なんですか」


 言い淀む彼に碧は問い詰めた。目線を逸らして焚き火の方を見た航は、ゆっくりと彼女の方へ視線を戻すと「……君だよ」と答えた。


「今夜、本当は君が死ぬはずだった。僕はそれについて詳しく調べようと図書館に出向いたんだ。君が死に至るまでの経緯を知りたくてね。


 夢の中に頻繁に現れるようになった君が一体何者なのかと考えていた矢先に、僕は過去の事件の話を聞いた。一時は君のことを幽霊か何かだと考えたくらいさ。けれど君が話していた内容や、服装の変化から僕は一つの推論を思い描いていた。それがさっき説明した同時刻平行理論だよ」


「私、……もう死んでたんですか?」


 目を泳がせて動揺を露わにした碧は、ビールの缶を地面に落とした。「えっ。うそ……」


 放心状態の彼女を見た航は、ショックを受ける姿を気の毒に感じていたが、「君は窮地を脱したんだ」と言いながら缶を拾い上げた。


「歴史が変わったんだよ!」


「歴史が、変わった……?」


 おうむ返しに呟いた碧は、心臓がばくばくと音を立てるのが聞こえてくるようだった。先ほど彼は、今井莉緒菜という人物は犠牲者の一人ではないと話していた。それならなぜ、今回に限って死ななければならなかったのか。


「私のせいで、あの子が死んだってことですか……?」


 碧の声は震えていた。「私のせいで、関係のない人を巻き込んだってことですか!」


「そうじゃない、君は悪くないんだ」


 涙を流しながら訴える碧を見ながら、航は以前に今井が話してくれたことを思い出していた。彼女は藤咲菫に対してひどい仕打ちを繰り返し行ってきたがゆえ、少なからず恨みを買っていたはずだ。


 碧の行動は、針の先をほんの僅かに動かしたに過ぎない。


「少なくとも、全く関係のない人間を巻き込んだわけではないと僕は思う。君の友人にしたって、すべての責任を君が感じる必要はないんだ。起こったことは、起こした張本人が責任を取るべきなんだから」


「でも、私が死んでたらあの子は死なずに済んだかもしれないんですよね?」


 碧はなおも同じことを繰り返した。「亜美だって、朝陽だって、私が菫ちゃんに夢を渡る方法さえ教えなければ夢と現実を混同することもなくて、それに――」


「君の理論を拝借すると、今井の死は僕の責任ということになるな」


 思い詰めたようにうな垂れる碧に向け、航はそう言った。「君が藤咲菫の手から逃れられたのは、恐らく僕との繋がりができたからだ。本来なら君は咄嗟に逃げ込む場所が思い浮かばず、その場で殺されていたはずなんだから」


「そんなの分からないじゃないですか! 私が助かったのはもっと別の理由かもしれないし……」


「そうだよ。すべては可能性に過ぎない」


 航はすぐさま言い返した。「すべてを君の責任だと考えるのは、傲りが過ぎるんじゃないのか? みんなはそれぞれの意思を持って行動している。そのすべてを君が意のままに操ったと勘違いするのはやはり傲慢だよ」


「そんな、自分勝手な考え方をしているわけでは……」


「そういうことだよ、君が言っていることは。挙句の果ては君が夢を渡る力を手に入れたせいか? それとも生まれてきたせい? 可能性はどこまでだって遡れるぞ」


「だって……」


 碧が不貞腐れたように口を尖らせると、航は立ち上がって杖を取った。


「大事なのは今だよ。起きてしまったことを悔んでも仕方がない。どんなに苦しくたって、いつかは前を向くしかないんだ」


 片足を引き摺りながら波打ち際に向けて一人歩きだした航の後ろ姿を見た碧は、彼が自分自身の話をしているのだと分かった。


「あの、わたし……」


 碧が口を開きかけた時、「だから君は、次に目覚めた時に彼女たちの生死を確かめなければならない」と振り返りながら航は言った。


「仮に生きていれば、その理由についても考える必要がある」


 現実での犯行の可能性を完全に捨てきるわけにはいかない。夢の中での殺人など、考えるだけでもぞっとする。


「目覚めた時って……」


 夢から覚めた後の現実を想像した碧は、途端に吐き気を催して地面に座り込んだ。無残な姿で亜美が亡くなる姿、涙を流す母親、それらを見ながら葬儀に一人寂しく参列する自分の姿。


「私、……そんなの見たくないです」


「これは生き残った者がやるべき義務なんだよ!」


 航は厳しい顔つきをしていたが、やがて表情を緩めながら「僕は君を助けたいんだ」と言った。


「そのためには、もっとたくさんの情報がいる」


「情報……」


 立ち上がった碧は、航の元へ歩み寄った。


「……私。菫ちゃんともう一度きちんと話してみます。彼女があんな風になったのも、何か理由があるはずだから」


 その言葉を聞いた航は、彼女の頭をそっとなでながら笑みを浮かべた。「あまり危険な行動は取らないようにね。まだ君の死を完全に回避したとは言えない状況かもしれない。僕の方でも、できる限り過去の事件について調べてみるよ」


 そして、現実の世界も。


 今井莉緒菜の存在は本当に消えてしまったのだろうか? あの屈託のない笑みや、時おり見せる妖艶な眼差しを思い出すと、航は途端に寂しさを覚えた。


「大丈夫。仮にまた夢の中で襲われそうになったら僕の夢に逃げ込めばいいからさ」


 航が彼女の肩に手を触れると、碧の身体は未だに震えが止まらないようだった。

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