碧 6月22日

第44話

 菫と二人で昼食をとり始めた碧に対して亜美はひどく怒りを示したが、朝陽が助け舟を出したおかげで揉め事には発展しなかった。


 ひっそりとした校舎裏には陽光が差し込み、うたた寝をするのに最適な場所といった雰囲気だった。


「でも、ちょっと眩しいかもね」


 陽ざしを遮っていた非常階段の最上階に比べ、菫が指定したベンチは直射日光をもろに受けている。隣の席に移動すれば木陰になるのに、彼女は頑としてその場所を譲らなかった。


「太陽の光が気持ちいいでしょ」


 額に汗をにじませながら菫を見遣った碧は、近頃の彼女に違和感を覚えていた。喜怒哀楽の表現が極端になったこともそのうちの一つだが、肌つやが日毎に良くなった彼女は今までとは比べものにならないほど色気を帯び始めていた。


 彼女に見惚れて告白をする男子生徒も再び増加傾向にあったが、当の本人はそれについて照れた様子を見せることもなく、むしろ品定めをするような発言まで見られた。


「今日も告白されちゃった。でも、私好みじゃないのよね」


 失恋から克服するための強がりとも取れたが、碧は彼女の変貌ぶりが少し不気味だった。時々我を忘れてヒステリックな言動を口にすることもあり、碧はどのように応えれば良いのか困っていた。


「そうだ! 今からプールに行きましょうよ」


「今から? だって、これから午後の授業が……」


 碧の答えに対してあからさまに不機嫌な表情を浮かべた菫は、「私は水浴びがしたいの!」と駄々をこねるように言った。


「こんなに暑くちゃ、身体が乾いてしまうわ」


「なら、あっちの席に移動すれば? ここはちょっと暑いし」


「それは駄目よ! 太陽の光を浴びないと」


「どうして?」


「そんなことも分かってくれないの? 私、碧さんにがっかりしちゃうわ!」


 彼女の自由気ままな発言に振り回され、碧の中には少しずつ苛立ちが募っていった。亜美や朝陽と再び会わせられるようになる日は一体いつになるのか。


 幼馴染と新しい友人の間で板挟みになった彼女は、近いうちにまたの所へ愚痴をこぼしに行くのだろうと予想しつつ、苦笑いを浮かべて菫の相手を続けていた。


 自宅に帰って夜を迎えた碧は、ベッドに横たわりながら考え事をしていた。夢と現実を混同して朝陽に言い寄ったあの日以来、菫の中で何らかの変化が起きている。以前には感じられた奥ゆかしさや恥じらいが失われ、わがままな面ばかりが目立っていた。これは失恋によるものか、はたまた別の理由があるのか。


「……行ってみようかな」


 深層心理を覗けば、彼女の傍若無人な振る舞いの理由を見つけられるかもしれない。


 眠りに就こうと碧が目を閉じた直後、突然窓を叩く激しい音が聞こえてきた。驚いて飛び起きた彼女は、鳴りやむ気配のない音に向かって恐る恐るすり寄った。


 カーテンを開くと、窓の外には菫の姿があった。学生服姿をした彼女は目を見開き、息を荒げながら窓を必死に叩いている。


 碧が慌てて鍵を開けると、飛び込むように室内に入った菫は彼女の肩を掴んだ。


「助けて! 追われているの!」


「えっ!」


 急いで窓に鍵をかけた碧は、地面に伏したまま身体を震えさせる菫を見遣り、「一体、何があったの?」と尋ねた。


 追われている……。告白を断った男子生徒の誰かだろうか。


 それにしても、この怖がりようは異常だ。先日彼女にカッターナイフを突きつけたという女子生徒が再びやって来たのか。最近は何もしてくる気配がないと話していたが、可能性としては大いに考えられる。


「あの、植物が私で、それが、追いかけてきて……!」


 支離滅裂な答えを口にする彼女は、碧の足元にしがみつきながら窓を見遣った。


「菫ちゃん。落ち着いて」


 背中をなでると、彼女の身体は冷え切っていた。気づけば室内は空気が澄んでおり、碧自身も二の腕の辺りに肌寒さを感じた。


「――あぁっ! 駄目よ、話しかけないで!」


 頭を押さえながら立ち上がった菫は、窓の方に寄って耳を澄ました。


「えっ? 嘘よ、そんな……」


 窓を開いた彼女は窓枠に足をかけると、一瞬のうちに暗闇の中へ飛び出していった。


「菫ちゃん!」


 窓に駆け寄った碧はすぐに周囲を見回したが、表には街灯もなく真っ暗闇だった。冷たい風が身体を打ちつけ、溜まらず白い息を吐き出した碧はそこでようやく思い至った。


 ベッドのそばに置いた携帯電話を手に取った彼女は、自身にメールを送った。


 ――ここは、夢の中。


 受信箱を更新すると、宛名のないメッセージが届いた。碧がそれを開こうとした瞬間、けたたましく部屋の扉を叩く音が鳴り響いた。続いて地面が激しく揺れ、窓がきしみ、本棚にあった本は地面に落下していく。


 床の上に落とした携帯電話を拾った彼女は、受信箱のメッセージを開いた。けれどそれを見たと思った時には、彼女はベッドの下に転がった状態で朝を迎えていた。


 太陽の光がカーテン越しに室内を照らしている。直前まで荒れ放題になっていたはずの本棚は何事もなかったかのように整然と並べられ、あれだけ冷え切っていた身体も今では暑いくらいだった。


「……やっぱり、夢だ」


 携帯電話の目覚ましアプリが起動しており、部屋中に電子音が流れている。扉の外からは母親の怒鳴り声が聞こえ、それに呼応するように扉を激しくノックする音が響いていた。


「もう起きたよ!」と母親に応えて目覚ましを止めた碧は、次いでメッセージの受信箱を開いた。


 メッセージは届いていない。試しにもう一度同じ手順でメールを送ると、当然ながらそれは自身で打ち込んだ内容のまま受信箱に届けられた。


 カーテンを開いた彼女は、昨晩のことを思い返しながら自宅の周辺を眺めた。雪は降り積もっておらず、近くには街灯もきちんと整備されている。


 普段の現実と何ら変わらぬ景色が広がっているように思われたが、ふと眼下に視線を遣ると、そこには見覚えのある赤い花があった。


 部屋を出て急ぎ足に階段を降りた碧は、ベランダの窓を開けて庭に出た。


「噓でしょ。いつからここに……?」


 近くで見ると、庭に咲いているのは以前に菫から夢の中で貰ったはずの赤い花だった。それは記憶にあるものより萎れており、もはや枯れていると言えるほどに弱っていた。

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