第26話

「碧さんは、どうしてあの二人といるの?」


 互いの夢を訪れて以降、ほどなくして碧と共に登下校をするようになった菫は、彼女の顔を覗き込みながらそう言った。


「無理してるように見える」


「そうかな?」


 惚けたように笑みを浮かべた碧だったが、菫が思いのほか真剣な眼差しを向けて来たので「時々面倒に思うこともあるけど、長い付き合いだから」と答えた。


「私、あの二人と碧さんは合わないと思う」


「菫ちゃんは容赦ないなぁ」


 苦笑いを浮かべた碧は、立ち止まって土手の上から河川敷を見下ろした。「確かに距離を感じる時はあるかもね。でも、今は菫ちゃんもいるから」


「私がいると碧さんは嬉しい? 距離を感じたりしない?」


 無垢な表情で尋ねる菫に対し、碧は気恥ずかしそうに頭を掻いたが、「うん。とっても気の合うお友達だよ」と答えた。


「えへへ」


 嬉しそうに笑みを浮かべた菫は碧を見つめながら左右に両手を広げると、そのままゆっくりと坂道に向かって倒れ込んだ。碧は慌てて腕を掴んだものの、態勢を崩した二人は抱き合うような形で芝の上に転がり落ちた。


「何やってんの、危ないでしょ!」


 坂道の途中で横たわった碧は菫に向かって怒鳴るものの、当の本人はそんな彼女を見てくすくす笑い、「今なら宙に浮けそうな気がしたんだけど」と答えた。


「そんな……。ここは現実なんだから」


 夢と現実を混同するような発言に思わず碧が強張った表情を浮かべると、彼女の頬に手を添えた菫は「そんなに怖い顔しないで」と囁くように言った。


 続いて大の字に寝そべった彼女は、碧の手を取って空を見上げた。体温の低いその手のひらは、ひんやりとして心地良かった。


「私ね、子供の頃は怖い夢ばかり見ていたの」


 身体を起こした菫は、芝の上で体育座りをしながら川を眺めた。


「だからね、パパは治療のために夢を操る方法を私に訓練させたの」


「訓練? そんなことができるの?」


 小さく頷いた菫は、碧の方を見ながら、「碧さんは明晰夢って聞いたことある?」


「夢の中にいるのを自覚することでしょ? 私も前に調べたことはあるよ」


「そう。私と碧さんは明晰夢を見ているの」


 菫は芝に混ざって生えた一本のクローバーを見つけると、指先で優しく触れながら「パパはある日、私に夢日記をつけるように言ったの」と言った。


「明晰夢を見るためには断片的に覚えている記憶を起きてすぐに書き留めるのが効果的なんだって。他には夜中に突然起こされたかと思えば、しばらくしてもう一度眠るように言われた。これは二度寝法と言って、他にもリアリティチェック法だとか、明晰夢誘導の記憶法なんてこともさせられたわ。


 パパに言われるまま訓練をした私は徐々に夢の中にいることを自覚できるようになって、慣れてくると夢を操れるようにもなったの」


「……そうなんだ」


 碧は常人離れした彼女の力の謎がようやく解けたような気がした。「それで? 怖い夢は克服できたの?」


 クローバーを引き抜いた菫は、それを仔細に眺めつつ、「私の夢の中にはね、"恐怖"を閉じ込めている場所があるの」と言った。


「碧さんのために作った部屋を紹介している時、突然現れた黒い扉。その先には私が怖いと思うものがたくさん詰め込んであるの」


「黒い扉……」


 碧はあの日の取り乱した菫の姿を思い返し、「完全に消してしまうことはできないの?」と尋ねた。


「消しても、またすぐに現れるから」


 ため息を漏らした菫は、膝の上に顔を埋めた。「あの扉の向こうには、きっとママがいるんだわ」


「菫ちゃんのお母さんが?」


 首を傾げた碧は、去年に彼女の母親が亡くなったことをふと思い出し、「仲が良くなかったの?」


「ううん。ママのことは大好きよ」


 クローバーの葉を熱心に見つめる菫の瞳には、どこか不穏な空気が漂っていた。


「普段はとっても優しくて上品な人だったの。でも、あの人の心には発作みたいなものがあって、時々それを発散させなきゃいけなかった」


 彼女の口ぶりから家庭内暴力を連想した碧は眉をひそめて続きを待ったが、次に菫が発した言葉は実に意外なものだった。


「ママは自殺したの。パパは私に隠してるつもりだろうけど、私はとっくの昔に気づいてる」


「自殺……」


 碧は青ざめた表情を浮かべたが、それを見た菫は僅かに笑みを溢した。


「ママの発作は昔に比べて随分とよくなっていたの。中学に上がる頃には私に対して発散をすることもほとんどなくなっていたし。そんなママが自殺をしたのは、何か理由があるはず」


「理由って、どんな……?」


 碧が問いかけると、「分からない」と菫は首を振った。


「でもママが死んだのは、そうしなきゃいけない理由があったからだと私は思うの。きっと、望んでやったことじゃないわ」


 クローバーの葉を引きちぎった菫は、無残な姿になり果てたそれを手のひらの上に乗せた。


「ママは私にも死んでほしいのかな。だから扉の奥で私が来るのを待って――」


「そんなわけないよ!」


 声を上げた碧は、彼女を抱き寄せた。「そんなわけ……」


「ママはきっと気づいていたの。私にもママと同じものがあることを。自分でも分かってる。黒くて汚い感情が私の中で渦巻いてるって。だから私は――」


「そんなの誰だってそうだよ!」


 彼女と向き合った碧は、潤んだ二つの瞳をじっと見つめた。


「私だって人のことを悪く思う時もあるし、嫉妬だってする。お母さんはそれを上手く抑えられなかったのかもしれないけど、ちゃんと向き合って乗り越えたんだよ。だからきっと、菫ちゃんに死んでほしいなんて思うはずない」


「碧さん……」


 ポケットからお守りを取り出した菫は上部の結びをほどくと、中から小さな赤い石を取り出して見せた。


「それは?」と碧が尋ねると、指先で石を摘んだ彼女は愛しそうにそれを見つめ、「これを持っていると気持ちが落ち着くの」と言った。


「ママが大事にしていたものみたい」


「お母さんが守ってくれてるんだね」と碧が言うと、彼女はどこか複雑そうに笑みを浮かべた。


「ママに対する恐怖心をママが守ってくれるなんて、何だか不思議」


 立ち上がった菫は、風に髪をなびかせながら碧を見下ろした。


「ありがとう、碧さん。私、碧さんにはもっと私のことを知ってほしかったの」


 わずかに光沢を帯びた赤い石を手に微笑む彼女の姿は、この上なく美しかった。


 抗いようのない力に引き寄せられて立ち上がった碧は、「私のことも、もっと知ってほしい」と答えると、彼女の手を取った。

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