第23話

 焚き火の音が聞こえ、久々にあの場所に行き着いた航は内心でほっとしていた。しばらくは夢を見ない日々が続き、彼女と出会えるこの地を訪れることが思いのほか困難であることを思い知った。


 目を開いた彼は、視界いっぱいに広がる星空を眺めた。相変わらず夜が続くこの場所には見慣れた夏の星座が浮かんでいたが、その中にあって一つだけ前回までと異なるものがあることに彼は気がついた。


「やっぱり、欠けてるよな」


 地面を照らす巨大な光源。これまでは完璧とも呼べるほどの満月だったが、今回眺めたものは明らかに形が歪んでいる。どうして欠けてしまったのか。


「こんばんは」


 前方に視線を移すと、そこにはいつの間にか彼女が立っていた。前回の制服とは少し雰囲気が違っている。半袖のワイシャツ姿をした彼女は航の隣に置かれたアウトドアチェアを指さし、「座ってもいいですか?」と尋ねた。


「もちろん」


 航は念のためクーラーボックスを漁ってみたが、やはり今日も缶ビールしか入っていないようだ。「何だか、久しぶりだね」


「そうですね」


 ポケットから煙草を取り出した航が箱から一本取り出して火をつけていると、睨みつけるように横から覗き込んだ彼女は、「身体に悪いですよ」と言った。「……臭いも嫌いだし」


「夢の中でくらい、不摂生を容認してくれないもんかね」


 口元から煙を吐き出した航は、夜空を眺める彼女の表情がどこか冴えないように思え、「何かあったのか?」と尋ねた。


 すると驚いたように目を見開いた彼女は姿勢を正し、「どうしてですか?」と彼の方を見た。


「どうしてって言われても、まぁ当てずっぽうだけど」


 焚き火の前に移動してしゃがみこんだ彼女は、うな垂れた様子で炎に両手をかざした。


「この間は余計なことを口走っちゃいましたね」


「年寄りは味覚の敏感さを失っている」


「そこまで断定した言い方ではなかったはずですけど」


 航の言葉を否定した彼女は近くにあった薪を焼べながら、「そうじゃなくて、私にも私の夢があるって話したことですよ」


「それに加え、君には君の現実がある」と付け足した航は焚き火の中に煙草を放り込み、「どうやら君は、現実に存在するみたいだな」と言って背もたれに身体を埋めた。


「この間、君と同じ制服を見かけたよ」


「……近くに住んでるってことですか?」


 不安げな表情を浮かべる彼女を見た航は、現実でよこしまなことを企むと思われたのかと少しショックを受けた。


「そんなに心配しなくても、案外距離があるみたいだよ」


「ごめんなさい。私、そういうつもりで言ったんじゃ……」


「仕方ないさ。なんせ目の前にいるのは得体の知れない男だからね」


 杖を手に立ち上がった航は、彼女の近くをゆっくりと歩いて見せた。「でもこのざまじゃ、君に危害を加えることも難しいだろ?」


「そういえば、足が悪いんでしたね」


 心苦しそうに彼女が答えるのを聞いた航は、目の前に立って手を伸ばした。


「僕は葉瀬川航って言います。二十五歳のしがない会社員で、君と同じ高校生の妹がいるよ」


「私は……」


 彼女は少し間を置いてから彼の手を握り返すと、「私は、沢渡碧です。十七歳のしがない高校二年生です」と答えた。


「お互いに、平凡な人間ってことかな」


 碧と握手を交わした航は、夢の中で自己紹介をし合う二人が果たして平凡なのかと疑問に思った。彼女も同じことを思ったのか不意に吹き出し、「少しは変わってるかもしれませんね」と言った。


 航が頷きながら笑っていると、「もしかして、妹さんが私と同じ高校なんですか?」と碧は尋ねた。


「いや、妹の友人が君と同じ高校らしい」


 航は杖の握りを確かめながら立ち上がった。「中学までは仲の良かった子みたいだけど、親の転勤で離ればなれになってしまったみたいでね」


「そうですか」


 俯いた碧は、地面をじっと見つめている。航はそんな彼女を見下ろしながら、「君は僕の夢に迷い込んだのか?」と思いついたように尋ねた。


 前回の夢で得た情報から航なりに推測した結果だったが、どうやらそれは当たりだったらしく、「私は、夢を行き来することができるんです」と彼女は白状したように言った。


「容易には信じがたい話だな」


「先に言い出したのはそっちですよね?」


 およそ妹を彷彿とさせる冷ややかな視線に、航は笑みを浮かべて席に座り直した。続けて彼がクーラーボックスからビールを取り出すと、碧がこちらに向かって手を伸ばした。


「なに?」


「私にもください」


「懲りないなぁ。また酔っぱらうぞ?」


「いいじゃないですか。どうせ夢の中なんだし」


 仕方なくもう一本ビールを取り出した航は、それを彼女に手渡した。「やれやれ。未成年の分際で生意気なことを言う」


 二人はなんとなく乾杯をすると、互いにビールを飲んで夜空を見上げた。彼女も異変に気づいたようで、難しい顔を浮かべながら欠けた月を睨んでいる。


 碧は黙ったまま空を眺めていたが、やがて彼の方を見ると「葉瀬川さんは夢の中で缶ビールをどこからともなく取り出したり、自由に空を飛んだりすることはできますか?」と尋ねた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る