第二部

航 5月23日

第22話

 航が会社から帰宅すると、夕食の準備をしていた紬は制服にエプロンを巻いた姿で廊下に顔を出した。


「おかえりー。ちょうどご飯できたけど」


「お前は、服ぐらい着替えろよな」


 ため息交じりに応えながら革靴を脱いだ航は、廊下に設置された手すりを持って歩き始めた。「飯の前に風呂入って来るわ」


「そう?」


 エプロンを外した紬は、テレビの電源を入れるとソファに横になった。「あれ。私の携帯どこだっけ」


「ったく。僕が知るわけないだろ」


 自室に鞄を放り投げた航は、着替えを取って風呂場へ向かった。脱衣所の扉を閉めて洗面台の鏡を眺めると、顎の辺りには早くも髭が生え始めている。少し前までは二日ほど剃らなくても平気だったのに、伸びるのが早くなったものだ。


 航がワイシャツのボタンを外していると、洗濯かごの中に水色のスマホケースが見えた。彼がそれを持ち上げると、液晶には近頃夢の中でよく見かける彼女とそっくりな制服を着た女の子が映っていた。


「これって……」


 よく見ると、スカートの柄や胸元のワッペンまで全く同じだった。すぐさま脱衣所に紬を呼んだ航は、迷惑そうに応えながら顔を覗かせた彼女に携帯電話を渡してやった。


「あっ! どこにあったの?」


「親父の脱ぎ捨てた靴下に絡まってた」


「……マジ?」


 一瞬顔をしかめた紬は、続いてくんくんと携帯電話の匂いを嗅ぎ始めた。


「うそだよ」と航が言うと、顔を上げた彼女は無表情で彼を見つめ、「サイテー」と言ってその場を去ろうとした。


「あ、紬。その画面に映ってる子ってさ――」


 航が呼び止めると、紬は振り返って不快そうに扉を叩いた。


「勝手に見ないでよ!」


「見えただけだろ」


 開き直ったように答えた航は、続いて彼女が手に持った携帯電話を指さし、「ところでその子って、誰?」と尋ねた。


「誰って、恵子だけど。前はしょっちゅう遊びに来てたじゃん」


「恵子?」


 首を傾げて腕組みした航は、「あぁ、あの眼鏡の子か! 随分と雰囲気が変わったな」


「そりゃ、最後に会ったのは中三だしね」


「最近は顔見ないな。別の高校に通ってるのか?」


「別っていうか」と言い淀んだ紬は彼から目を逸らし、「恵子は親の転勤で、高校からは地方に引っ越したし」


「引越? 地方ってどこだよ?」


「それは――」と答えかけた紬だったが、ふと我に返って航を睨みつけると「ていうか、私の親友に欲情とかお兄キモいんだけど」と冷ややかに言い放ってその場を去った。


「キモい……」


 いつの間にあんな下品な話し方をするようになったのかと妹の成長を嘆きつつ、航は彼女の言葉を思い返した。


「転勤か」


 どうやら紬は、大事な友人と高校から離ればなれになってしまったようだ。本人からそんな話を聞いた覚えはなかったものの、重要なことほど口にしない我が妹のことだから誰にも言えずに今まで過ごしてきたのだろう。


「やれやれ。誰に似たんだか」


 眼鏡もなく、垢抜けた様子で笑みを浮かべる恵子は昨晩にも夢に現れた彼女と同じ制服姿だった。やはりあの子は夢の住人などではなく、現実に存在するということか。


 風呂から上がってキッチンに向かった航は、冷蔵庫を開いた。放課後に紬が買い足してくれたのか新しい牛乳がドアポケットのところに並んでいる。


「なぁ、紬」


 ソファで横になりながらテレビを眺めていた紬は首だけで彼の方を見遣り、「まだ何かあんの?」と怒ったように答えた。


 ダイニングの椅子に腰かけた航はそんな彼女を真っすぐに見つめ、「恵子ちゃんのこと、気づいてやれなくて悪かったな」と言った。


「何で、お兄が謝ってんの」


 紬は気まずそうにソファに座り直し、「別に。私が話さなかっただけだし」


「まだ連絡は取り合ってるのか?」と航が尋ねると、紬は無言で小さく頷いた。


 彼はコップに注いだ牛乳を一息に飲み干し、「大学は同じところに行こうとか、そういう話はしてないのか?」と続けて尋ねた。


「一応、……してる」


 静かにそう答えた紬は、立ち上がって航の前まで移動すると「ねぇ、もし私が一人暮らししたいって言ったら、お父さん怒るかな?」と彼に尋ねた。


「一人暮らしか」


 先ほどの写真が脳裏を過ぎった航は、さすがにここからでは通うのが困難な距離なのだろうと予想し、「別に怒らないだろ」と答えた。


「ほんとに?」


 紬はさらに航の方へ詰め寄り、「お兄はどう? ……怒らない?」と尋ねた。


「なんで怒るんだよ」


「だって、お兄はずっと実家暮らしだし、私だけ一人暮らしなんて」


「金のことなら心配すんなよ。僕も親父も、これで結構稼いでるんだ」


「そういう問題じゃなくて」


 俯いて黙り込んだ紬は、拳を強く握りしめながら「お父さん、寂しくないかな」と呟いた。「お母さんもいないし、お兄とは、いつも喧嘩ばっかだし……」


「……紬」


 たかが高校生の分際で、内面ばかり大人に近づいていく妹に航はどこか申し訳ない気持ちがしていた。母親が亡くなってからこれまで最も苦労をかけてきたのは彼女に違いない。


 立ち上がって彼女の頭をポンと叩いた航は、「心配いらないよ。確かに僕と親父はよく言い合いをするけど、あれくらいは喧嘩のうちに入らないから」と言った。


「紬は自分のしたいようにすればいい」


「……うん」


 瞳を潤ませて頷いた紬はスカートの裾を握りしめると、やがて大きく息を吐き出した。


「はぁ……。何か言ったらすっきりしたかも。ご飯食べる?」


「お、おう。そうだな」


 キッチンに向かった紬の後を追って航が手伝おうとすると、彼女はそれを拒みながら「いい! お兄は邪魔だし」と言った。


「何だよ、つれないなぁ」


 ソファに退散した彼は、張り切った様子で夕飯を作り始める妹の後ろ姿を遠目に眺めながら、この光景もあと少しかと思うとどこか感慨深い気持ちがこみ上げていた。


「ただいまー!」


 玄関から叫び声が聞こえ、料理を中断した紬は父親を出迎えに行った。


「あれ? 牛乳なら私が買っといたのに。あっ! しかもそれ高いやつじゃん!」


「こら、紬。……大声出すなよ」


 二人の遣り取りを耳にした航がリビングからひょっこり顔を出すと、片手にビニール袋をぶら下げた父親はきまり悪そうに顔を背け、「これはあれだ。俺が飲む用に買ってきたんだ」と言ってその場でパックの牛乳をラッパ飲みし始めた。


「あ、ちょっと! 直接飲まないでよ!」


 紬が注意するのも聞かずに牛乳を一気に飲み干した父親は、航の方を見ながら得意げな表情を浮かべた。


「やっぱ高いやつは、濃さが違うな」


「……やれやれ」


 肩を竦めてリビングに戻った航は、来年からの生活を想像して少し不安になった。

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