第21話

「――ねぇ、これで本当に夢を渡れるの?」


 碧に指示された通りテラスに猫足のバスタブを出現させた菫は、そこに湯を張りながら彼女に尋ねた。「ねぇねぇ、どうやって?」


「うん。ちょっと待ってね」


 碧はお湯の温度を確認しながら、自身が夢を渡って来た方法を順に説明し始めた。


 水中に全身を沈み込ませ、訪れたいと思う者の姿を思い浮かべながら目を閉じると、再び開いた時には視線の先に光る糸のようなものが垂れ下がっている。


「その糸に触れば、目当ての夢の中まで案内してくれるよ」


「それだけ?」


 湯船を覗き込んだ菫は顔を上げて碧を見遣り、「どう見てもこれはただのお風呂よ?」と言った。


「私もたまに潜ったりするけれど、光る糸なんて見たことないもん」


「それはきっと、意識の問題じゃないかな」


「意識?」


「うん。私が初めて夢を渡るのに成功した時はね、それはもう必死だったから」


 湯船のお湯をかき混ぜるように動かした碧は苦笑いを浮かべ、「私ね、小さい頃に川で溺れたことがあるの」と言った。


「ほんの三歳くらいの時だったから自分では全然覚えてないんだけど、その時は偶然通りかかった人に助けられたみたい。


 それがきっかけか分からないけど、私は小学生の頃によく溺れる夢を見るようになったの。暗くて、苦しくて、起きたらいつも枕が涙に濡れてたっけ」


「そんなことが……」


 菫は悲しそうに碧を見つめ、「あの、病院には?」と気後れした様子で尋ねた。


「うん、行った。でも全然良くならなくて、私は毎日のように夢の中で溺れていたの。初めて糸が見えたのは本当に偶然だったよ。その日は誰かに助けてほしいって考えていたのかも。突然目の前に光が見えて、私は藁にもすがる思いでそれを掴んだ」


「そしたら、別の人の夢の中に?」


 菫は口元に手を遣り、「すごい体験だわ。誰のことを考えたの?」と尋ねた。


「その時は亜美だったかな。よく一緒に遊んでたし、いつも私のことを助けてくれてたから」


「……そう」


 どこか羨ましそうに碧の横顔を見つめる菫は、「私の知らないあなたを、亜美さんは知ってるんだ」と呟いた後、「夢に見るほどの体験なんて、よっぽど怖かったのね」と言った。


「まぁ、おかげで今は楽しい思いをさせてもらってるから」


「私は夢から早く出たいだなんて、思ったことない」


「菫ちゃんの夢はとっても素敵だもん」


 碧は頭をぽりぽりと掻きながら、「私の夢は退屈だからね、他の人の夢の中にしょっちゅう遊びに行ってるよ」


「私は碧さんがいれば、それだけで楽しいけれど」


 熱心に見つめる菫の瞳に恥じらいを覚えた碧は、咳払いしながら目を逸らし、「まぁ、とにかく私が試してみて上手くいったのはこれだけかな。他にも方法があるのかもしれないけど」


「だから碧さんは、花を持って行くのが大変だって話していたのね」


 相変わらず熱い視線を送る彼女の方をちらりと見た碧は、次いで近くに置いた鉢植えを見遣り、「さすがに水の中を通ると、駄目になっちゃうだろうしね」と弱ったように言った。


「そっか……」


 菫が悲しそうに花を眺めたので、碧は彼女の肩にそっと手を置き、「でも菫ちゃんの夢に来れば、いつでも見られるでしょ?」と励ますように言った。


「じゃあ、これからはいっぱい会いに来てくれる? 私を一人にしない?」


 縋るような目つきで迫る彼女の手を握った碧は、「もちろん」と答えて湯船を見た。


「それじゃ、行こっか」


 碧が鼻をつまんで息を吸い込むと、菫は焦ったように手を振り解き、「待って!」と言って指を鳴らした。


 次の瞬間、ネグリジェにガウンを羽織っていた彼女は碧と同じ夏の制服姿に変わっていた。


「別に制服じゃなくても」と碧が言うと、菫は恥ずかしそうに目を逸らした。


「だって、お揃いが良かったから」


「今度こそ行くよ!」


 彼女の背中に腕を回した碧は、合図とともに水面に飛び込んだ。


「…………」


 湯船の底のさらに深い場所へと沈みこんだ菫は、見通しの悪さに驚かされた。ほんの数十センチの深さだったはずが、今では巨大な沼のような空間を漂っている。


 底も見えぬ、汚らしい空間に彼女は恐怖を覚えた。


 怖い……。でも、焦っちゃ駄目よ!


 碧の姿はいつの間にか見当たらなくなっていた。菫は教わった通り、目を閉じて碧の顔を思い浮かべた。


 ボブカットの髪に、くりっとしたつぶらな瞳。豊満な胸元に抱き寄せられる感覚を思い返しながら再び目を開くと、遠方に水色の光の筋が伸びていた。濁った水中を不器用に泳ぎ進みながら光を目指した菫は、恐る恐るそれに手を触れた。


 糸状の光は、餌に食いついた魚を引き上げるように菫の身体を浮上させていく。水面から顔を出した彼女は酸素を取り入れるべく必死に息を吸い込んだが、直前まで感じていた呼吸の苦しさは今では微塵も感じられず、衣服や髪もすでに乾いていた。


 菫は見覚えのない室内に蹲っていた。顔を上げて周囲を見回すと、窓辺には制服姿の碧が立っている。


「碧さん!」


 室内には本棚や学習机、ベッドなどが六畳ほどの空間に配置されていた。あくまでも控えめで、それでいて女性的。家具の色は全体的に淡く、まさしくそこは碧を体現するように慎ましやかな美徳に満ちた場所に思われた。


「つまらない所でしょ」


 手招きをされて立ち上がった菫は、窓際に寄って表の景色を眺めた。辺り一面が真っ白に彩られている。


「雪?」と菫が尋ねると、「最近はね、ずっと冬なの」と答えた碧は、「やっぱり菫ちゃんには、……簡単にできちゃったか」と呟いた。


 どこか強張った表情を浮かべる碧を見た菫は、実は歓迎されていないのではないかと不安に思ったが、窓の外を見下ろしていた碧は振り返って彼女の手を取ると「ようこそ、私の夢へ」と言って紳士的なお辞儀をした。


「お招きに預かり、光栄ですわ」


 菫がスカートの裾を持ってお辞儀を返すと、二人は腹を抱えて笑い合った。


 ようやく気分が落ち着いた菫は夢を渡る際に目にした光景を思い出すと、碧の制服の裾を掴みながら「あんなに怖いなんて、聞いてない」と怒ったように頬を膨らませた。


「そう? 私はもう慣れちゃったから」


 惚けたように頭を掻いた碧は、学習机の椅子にかけてあったボアパーカーを手に取り、「寒いでしょ? 良かったら使ってね」と言って菫の肩にそれをかけた。


「……あったかい」


 袖を通した菫は衣服から漂う匂いに碧の気配を感じ取ると、途端に心が温まる思いだった。


「それで、……どうしよっか」


 椅子に腰かけた碧は部屋を見回し、「見ての通り、ここは現実世界の私の部屋とそっくり同じなんだよね」と肩を竦めて言った。


「だから、わざわざ夢で遊びに来るほどの価値もないというか」


「そんなこと言わないで」


 窓の外を再び眺めた菫は、しばらくして何かを思いついたように手を叩いた。


 彼女は試しに指を鳴らしてみたが、特に何も起こらない。やはりここでは駄目なのかと思いつつゆっくりと目を閉じた菫は、集中してイメージを膨らませた。


 輪郭、感触、そして香り――。


 彼女が頭の中いっぱいにその存在を思い描いていると、やがて碧が「菫ちゃん!」と言って肩を揺らした。


 目を開くと、視線の先には植木鉢に入った赤い花があった。


「……やった」


 植木鉢を手に取った菫はそれを胸の前で抱えると、「見て、碧さん! 私、ここでも頑張ったらお花が出せたよ!」と興奮したように言った。


「すごい……。他人の夢の世界に干渉するなんて」


 はしゃいだ様子の彼女を見つめる碧は、呆然とした表情を浮かべていた。


「碧さん、この子をあなたのお家の庭に植えてもいいかしら?」


 真剣な表情でそう言った菫は、赤いお花の植木鉢を彼女に差し出しながら、「碧さんにとってここが退屈な所なら、二人で楽しい世界に変えちゃえば良いんじゃないかな」


「変える……」


 彼女の力に圧倒されて頭が混乱していた碧は、植木鉢を受け取ると口元に薄っすら笑みを浮かべ、「雪かき。しないとだね」と答えた。

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