第20話
お屋敷のベッドで夢の世界に覚醒した菫は、掛け布団を退かして起き抜けの紅茶を飲むと、シルクのネグリジェにガウンといった軽やかな寝間着姿で窓辺に歩いて行った。
澄んだ青空が広がり、夏の陽ざしが降り注いでいる。テラスには愛するお花たちが優雅に咲き誇り、彼女に朝の挨拶を交わしていた。それに応えるようにテラスに出た菫は、片手にジョウロを持って彼らにたっぷりと水をやった。
「ふふ。気持ちいい?」
お気に入りの花には念入りに水をやり、生長点から出た新たな花芽も観察していく。
「――私も。あなたたちのことが大好きよ」
潤った彼らを見て満足げに頷いた彼女は、室内に戻ってベッドに腰かけた。
「……はぁ。まだ来ないのかしら」
菫が退屈そうに足をぶらつかせていると、「ごめんね、遅くなって」と声が聞こえた。そちらを見遣ると、先ほどまでは誰もいなかったはずのテラスから碧が顔を覗かせている。
「結構待たせちゃったかな?」
「ううん、全然!」
勢いよく立ち上がった菫は開けた胸元を隠しながら碧のもとに駆け寄り、「どうやってここまで登ってきたの?」と尋ねた。
「えっと、気づいたらここにいたから実際には登ったわけじゃないんだけど」
テラスに咲いた花々を眺めた碧は、うっとりした表情を浮かべてその中にある赤い花に顔を近づけた。「わぁ、この花きれいね」
「良かったらそれ、碧さんにあげる」
小ぶりの植木鉢を取り出した菫は、花壇の赤い花をそれに植え替え始めた。慣れた手つきで園芸用こてを使い、屈んで土を掘る後ろ姿は優雅なネグリジェとはまるでマッチしないように碧には思われた。
「ねぇ、服が汚れちゃうよ?」
「いいの」
花を植え替えた菫は、それを碧に差し出した。彼女はお礼を言いながら嬉しそうに鉢を受け取ったものの、次いで悩ましげな表情を浮かべ、「でも、どうやって持って帰ろうかな」と呟いた。
「来た道を戻れば?」と菫が言うと、碧は困ったように唸り声を上げ、「その来た道が問題なんだよね」と答えた。
菫は一瞬首を傾げたが、それもすぐに笑顔に変わると「ねぇ、こっちに碧さんのお部屋を作ったの!」と言って走り出した。
部屋の隅に移動した彼女は、金の装飾が施された白い扉の前に立った。
「開けてみて」
後を追った碧が扉を開いて中を覗き込むと、そこには菫の部屋に負けないほど豪華なシャンデリアが垂れ下がっていた。淡い桃色を基調に金の装飾を施した壁紙、そのうちの一面には楕円形の縁取りをした大きな鏡があり、中央には鮮やかな緑色の椅子や書斎、奥にはベッドや本棚、暖炉まで見られた。
「すごい! まるでお姫様の部屋みたい」
興奮した様子で室内を見回す碧に向かい、「ヴェルサイユ宮殿を参考にしたの」と菫は自慢げに言った。
「気分はマリー・アントワネットね」
碧は壁際に並んだ本棚に自分好みの書籍が並んでいるのを発見すると、そのうちの一冊に手を伸ばした。
「この間碧さんがお勧めしてくれたでしょ? だから私なりに調べて用意してみたの」
菫は恥ずかしそうにそう語ると頬に手を遣り、「でもまだ本を読んでいないから、それも恰好だけで中身は白紙なんです」
碧がぱらぱらとページを捲ると確かに中身は白紙で、外側だけが本物そっくりに作られていた。「ほんとだぁ。不思議」
「夢の中での創造物は、イメージが大事なんです。詳しい知識を持っている人は、より精巧なものを作り出すことができる。私にはまだまだ経験が足りないから、出来栄えもぐんと落ちてしまうけれど」
「ううん、そんなことないよ。菫ちゃんはすごいね」
碧が頭をなでると、菫はその場にじっとしたまま目を瞑った。
「えへへ。そうかな」
彼女に喜んでもらえたことに満足しながら菫が再び目を開いた時、等身を優に超える鏡の隣には、先ほどまで存在しなかったはずの扉が現れていた。
「あれ……? あんな所に扉なんてあったかな?」
同じく扉の存在に気づいた碧は、不思議そうに首を傾げている。
黒ずんだ木製の扉は、他の装飾品と比べても随分と古びていた。真鍮の取っ手には錆が見られ、木目には所々に傷跡が目立つ。塗料が溶け出ているのか、表面にはぬめぬめとした光沢があった。
「もしかして、サプライズとか?」
青ざめた表情で扉を見つめる菫をよそに、笑みを浮かべた碧は扉に向かって行った。それを引き留めるべく彼女の腕を掴んだ菫は「駄目! その扉は開けちゃ駄目なの!」と叫んだ。
必死に行く手を阻む菫に驚いた碧は、立ち止まって振り返ると「菫ちゃん? 大丈夫?」と声をかけた。
呼吸を荒げて身体を震わせる菫は、その場に蹲って胸元に手を当て始めた。碧が背中を擦ってやると、しばらくして落ち着きを取り戻し始めた彼女は碧の胸に顔を埋め、「私、ここから離れたい。碧さんの夢に行っては駄目?」とかすれた声で言った。
「私の夢? ……来たいの?」
目に涙を浮かべながら首を縦に振る菫を見た碧は、一瞬だけ先ほどの扉に目を遣ってから「分かった。やり方を教えてあげるね」と言って彼女の頭をなでた。
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