菫 5月18日

第19話

 月曜日の朝、カーテンを開いた菫は落胆したように肩を落とした。霧のように細かな雨が降り、薄暗い景色一面を濡らしている。


 朝の支度を済ませた菫は、習慣で庭の花のもとへ足を運んだ。雨に濡れたそれは当然水をやる必要もなく、湿った空気の中で艶っぽく佇んでいる。


 傘をさして花を眺めていた菫は、「今日は、一日雨かな」と呟いた。雨粒の重みで上下に揺れる花は、まるで相槌を打っているように見えた。


「太陽が恋しい? 駄目よ。ここでの私には何の力もないんだから」


 そう言葉を発した途端、菫は驚いて口元に手を遣った。


「私、一人で何を……」


 彼女はポケットから桜色のお守りを取り出すと、手のひらに乗せてそれを眺めた。生前の母親に贈ったものとお揃いのもので、菫は母親と父親と自分に対して同じ三つのお守りを購入していた。


 そのうちの一つは母親と共に棺桶の中に納められたが、彼女は自身のお守りを肌身離さず持ち歩き、昨晩に父親から貰い受けた赤い石を中に入れていた。


「ママ……」


 菫が胸の前で拳を握りしめると、仄かに甘い匂いが鼻についた。およそ蜂蜜にも似た香りに彼女が周囲を見回すと、それはお守りから漂っているようだった。


 お守りを鼻に押しつけた菫は、匂いに没頭した。すると次の瞬間、彼女は人気のない草原に佇んでいた。そこは自身の夢の世界にも似ているが、目の前に屋敷や丘は存在しておらず、ただひたすらに平坦な景色が広がっている。


 何かに導かれるように歩き始めた菫は、足を進めるたび匂いが強くなっていくのを感じた。やがて強烈な香りを放つ場所へ辿り着くと、そこにはあの花が咲いていた。


 周りは象牙色で、中央にいくほど淡い菫色になる花。花びらを風に揺らめかせるそれは、彼女を誘うように手招きしている。


「来て……。来て……」


 囁くような美しい声に魅了された菫は花に向かって手を伸ばしたが、手が触れたと思った瞬間には一歩先へ進んでいる。


「待って……」


 後を追った彼女が再び手を伸ばしかけた時、突然背後から肩を掴まれた。


「何をしてるんだ。危ないだろ!」


 振り返ると、そこには父親の姿があった。怒鳴り声に肩を強張らせた菫の視界の先は、いつの間にか現実の景色に戻っていた。


 曇天に覆われた空。肌にへばりつく粒子状の雨。庭に傘を投げ捨てた彼女は、知らぬ間に門外の道路に立っていた。


「通行量が少ないとはいえ、ここにも車は通るんだぞ?」


 父親は彼女の手を引いて敷地内に入った。「あーあ。制服が濡れてしまった」


「ごめんなさい、パパ……」


 菫が俯いてそう言うと、父親は少しばかり顔をしかめた後でため息を漏らし、「体に障るといけないから、早くお家に入りなさい」と答えた。


 言われるまま彼に続いた菫は、自身がお守りを握りしめていたことに気がついた。顔の前に持ってきて再び匂いを嗅ぐと、今では何の匂いもしなかった。


 通学路を歩き進む菫は、夢の余韻に浸っていた。天に向かって傘を掲げると身体が宙を舞うような予感がしたが、それは単なる気のせいに過ぎなかった。重力が彼女を押さえ込み、地面に縛りつけている。深いため息を漏らした彼女は、重たい足取りで学校を目指した。


 教室での彼女は相変わらず孤独だった。声をかけてくる者はおらず、彼女が教科書を取り出すちょっとした仕草さえ好奇の目で見られる。一体何を出すと思ったの?


 教室の隅でクラスの友人と会話を繰り広げる莉緒菜は、体育倉庫の件があって以来は接触して来ない。先週の金曜日に亜美が教室を訪ねたことでクラスメイトの間では秘かにどよめきが起こっていたが、中でもひときわ戸惑いの表情を浮かべていたのは彼女だった。


 教室を出る際に視界に入った彼女の目つきは、およそ敵意に満ちていた。


 四限目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、菫はすぐさま席を立った。片手にお弁当箱を抱えて廊下の端まで歩き進んだが、校舎に外付けされた非常階段は予想通り雨に濡れ、とても食事ができるような状態ではなかった。


 どうしたものかと外を眺めていると、背後から肩を叩く者があった。もしや碧ではないかと期待した菫だったが、その予想も虚しく目の前には歪な笑みを浮かべて立つ莉緒菜の姿があった。


「雨の日は、さすがに使えないよね」


 あたかも非常階段で食事することを知っているような口ぶりで話す莉緒菜は、肩に触れた手を菫の手首に向けて伸ばすと、力一杯に引っ張りながら歩き始めた。


「莉緒菜ちゃん、……痛いよ」


 嫌がる菫をトイレに連れ込んだ莉緒菜は、中に誰もいないことを確認すると「今日は誰も迎えに来なかったね」と彼女を見て言った。


「もう捨てられちゃった?」


 菫が顔を背けると莉緒菜はむきになって肩を掴み、「菫さんには私がいれば十分でしょ!」と言って彼女を壁に押しつけた。


「あなたは孤独で寂しい存在じゃないと輝かないの。だから私があなたを輝かせてあげてるのよ。その輝きを一番近くで見られるのは私だけ。私だけにその資格がある。だってあなたは、私の憧れなんだから!」


「それじゃ、みんなが私を避けてるのは莉緒菜ちゃんが……」


 にやりと笑った莉緒菜は、菫の綺麗な髪をなでると続けてそれを掴み、「そうよ! 全部あなたのためなんだから」と言って引っ張り始めた。


「そんな私の思いやりを、あなたはちゃんと分かってるの?」


「い、痛いよ、莉緒菜ちゃん」


「どうして、私の気持ちがあなたには届かないの? ……こんなに好きなのに」


 それを聞いた菫は、ふと幼少期の記憶を思いだした。


 父親が仕事で不在の際に、しつけと称して母親から密かに折檻を受けていた頃の記憶。やがてそれは悪夢となって現れ、父親からメンタルケアを受けた彼女はすべてを知られてしまうのではないかとおびえながら過ごしていた。


 行為が表沙汰になれば、彼女は母親を失うことになる。そんなことにはなってほしくなかった。彼女は母親が大好きだった。


 普段はおとなしくて、優しい母。時おりほんの少しだけわがままになる母。その僅かな狂気は、娘に対する愛情によるものだと彼女は語っていた。


『私の気持ちが理解できないの? こんなにもあなたを愛しているのに』


「……そんなの、分かんない!」


 菫が激しく首を振ると、莉緒菜が握っていた手を緩めた。その隙に扉を開いた彼女は急いでトイレを後にした。


「待ちなさいよ!」


 呼び止められるのも聞かず廊下を走り出した菫は、途中で見かけた内階段を駆け上がった。素早く踊り場を折り返し、次の階に向かってさらに登ろうとしたところで上の階から降りて来た者と危うくぶつかりそうになった。


「ご、ごめんなさい!」


 慌てて頭を下げる菫の前に立っていたのは、片手にお弁当箱を下げた碧だった。


「菫ちゃん?」


 碧は顔を覗き込むと、額から汗を流す菫の肩にそっと手を乗せた。


「大丈夫? もしかして、非常階段に行ってきたの?」


「あ、はい。でも……」


 俯いたまま答える菫の手を取った碧は、「雨の日はね、別の集合場所があるんだよ」と言って歩き始めた。「――来て」


 菫の手を優しく引いた碧は、ゆっくりと階段を上っていく。最上階を通り過ぎた彼女はさらに階段を上ると、屋上に通じる扉の前で立ち止まった。


「ちょっと埃っぽいけどね」


 登り切った階段に腰かけた碧は、菫にも隣に座るよう促した。「何だか、こっちで会うのはまだちょっと緊張するかも」


 照れたように話す碧の横顔を眺めた菫は、いっそのこと夢の中でしてくれたように押し倒してほしいと願ったが、そこでふと気づいたように「お二人は来られないんですか?」と尋ねて周囲を見回した。


「えっとね、亜美と朝陽は部活の集まりで今日は来れないんだって」


 碧はお弁当箱の包みを弄りながら、「でも、ひょっとしたら菫ちゃんが来るかもしれないと思ったから」と小声で言った。


「あなたにはまだ、雨の日の集合場所を教えてなかったでしょ? だから困ってるんじゃないかと思って私が迎えに……」


 落ち着きなく指先を動かす碧の姿にこの上なく親しみを覚えた菫は、無意識にその手を握りしめていた。


「私、碧さんのこと――」


 彼女は戸惑ったように顔を上げた碧の瞳を覗き込むと、「もっと、もっと知りたいです」と言って握った手に力を込めた。

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