第18話

「パパ、これは何?」


 夢中で石を眺める娘の姿に、またしても妻の姿が重なった。


 脳内の電磁波が確認されて以降の妻は、目の前の彼女が今まさに浮かべているようなぼんやりとした表情をよく浮かべていた。


 息を呑んで見守る彼の視線を気にも留めず「きれい……」と呟いた菫は、目を輝かせながら父親を見つめ、「ねぇ、パパ。この宝石、私が貰っちゃ駄目?」と言った。


「いや、それは――」


 すぐに奪い返そうと思った慎二だったが、ふと脳裏に浮かんだのは昼間に紺野が話していた言葉だった。


 脳内に漂う、電磁波との共鳴。


 その衝動は急速に脳内を占めていった。


 仮に菫の脳内で妻と似た症状が起こっているとするならば、これは原因究明における絶好の機会ではないか。


 大学時代に研究室で切磋琢磨していた頃の情熱が沸々と蘇ってくるのを感じた彼は、あくまでも落ち着いた口調で「欲しいのかい?」と彼女に尋ねた。


 父親の私物を漁ったことで叱られると予想したのか、菫は俯き加減に押し黙りながら小さく頷いた。


「大事なものだったのなら、ごめんなさい」


「大丈夫だよ、菫」


 慎二は娘の肩に手を置き、「その赤い石はママが大事にしていたものなんだが、そんなに欲しいなら君に譲ろう」


「ほんと?」


「でもね、菫」


 彼は肩に添えた手に少しばかり力を込め、「今後は私のいない間に勝手に鞄の中身を覗いたりするもんじゃないよ」と言った。


「はい……。ごめんなさい」


 怯えたように返事をする彼女の顔を覗き込んだ慎二はにっこり微笑むと、「パパも一つ、菫にお願いがあるんだ」と言った。


「なーに、パパ?」


 顔を上げた娘の顔は、まるで従順な子犬のようだった。


「少し前に庭先で倒れていたことがあっただろ? 知り合いがみてくれると言ってくれたから、今度一緒に病院へ行ってみようか」


「病院?」


 不安げに瞳を潤ませる彼女を見つめながら、慎二はなおも微笑みを崩さず「心配することはないさ。先生とはよく知った仲だからね、何も怖いことはない」


 しばしの間目を泳がせていた菫は、やがて彼の方を見ると「分かったわ。パパがそうしてほしいなら、私病院に行く」と答えた。


「良い子だ。帰りにアイスを買ってやろう」


「もう、パパったら。いつまでも私を子ども扱いして」


 娘に笑みが戻ったところで短く息を吐き出した慎二は、「それじゃ、パパはしばらく部屋で仕事をするから、菫も遅くならないうちに寝るんだよ」と言った。


「うん。お仕事頑張ってね」


 娘が退出した後で机に向かった慎二は、額に手を当てながら深いため息を漏らした。これで良かったのかと不安に思いつつ、どこかで高揚感を抱いている。


 スタンドライトを点灯させて鞄の中身を確認していると、携帯電話に着信があった。相手が紺野ならこれほどタイミングの良いことはなかったが、あいにく液晶に表示されていたのは八十島の名前だった。


 彼とは紺野と同様に大学時代から親しくしており、妻の百合子を含めて四人でよくつるんだものだ。学生の頃から少しばかり女性関係にルーズなところはあったものの、友人として信頼のおける奴だっただけにこの度の不貞行為は慎二にとってこの上ないショックだった。


 奴らが二人でホテルに滞在していた時に妻が亡くなったことで、八十島は警察から任意同行を受けた。その段階になってようやく事実を知るに至った慎二だったが、容疑が晴れた今ですら彼は未だに八十島を疑っている。


 直接的ではないにせよ、を仄めかすような発言や行為をしたことは大いに考えられる。なぜあの時妻を止めなかったのか。止められなかったのか……。それを問いただすだけの勇気が、気力が、彼にはなかった。


 鳴りっぱなしの携帯電話を眺めながら、慎二は昼間に紺野と話していたことをまたも思い返した。いいさ。罪を償うチャンスを与えてやろうじゃないか。出来るものならな。


 通話ボタンを押すと、すぐに八十島の声が聞こえてきた。


「もしもし、藤咲か!」


 奴の声にはどこか焦りが感じられた。


「お前にずっと話したいと思っていたんだ。百合子さんとの事は、本当にすまない。魔が差したとしか言いようがない。言い訳するつもりもないよ」


 煙草に火をつけた慎二は、ため息の代わりに煙を大きく吐き出した。


「でも、あの時の百合子さんは本当にどこか妙だったんだ。こんなことを言うと藤咲には申し訳ないと分かっているが、俺は彼女の方から声をかけられたんだ。だが、それに乗った自分が悪いことは重々承知している。言い訳がしたいわけじゃない。


 聞いてくれ。事件のあったあの日、彼女はまるで別人のようだった。ひょっとしたら、もっとずっと前からそうだったのかもしれない。俺に声をかけたその時から、すでに彼女は精神を病んでいたんだ。そうでもなきゃ、あの日のことは説明がつかない。


 あれは恐ろしい光景だった。彼女は突然ナイフを持ち出すとそれを首に――」


「八十島」


 彼の話を途中で遮った慎二は、火がついたままの煙草を力一杯に握り潰し、「悪いが、その話は聞きたくない」と静かに答えた。


「そ、そうだよな。悪かった。俺はお前に伝えようと必死なあまり、お前の気持ちを全く考えられていなかった。すまない」


 八十島が黙り込むと、風を切るような音が聞こえてきた。続いて踏切警報機の音が鳴り始めている。


「近いうちに、直接会って話がしたい。もちろんお前が望まないなら、俺はその気になるまで待つつもりだ」


 通話を終えた慎二は、机の引き出しからウイスキーの瓶を取り出した。深酒をすると悪酔いをするため妻に止められていたが、もはや構うことはなかった。


 慎二はグラスに注いだ琥珀色の液体を原液のまま流し込んだ。カーテンを開いて外を眺めると、視線の先には閑静な住宅地の屋根が建ち並び、その上に光る少しばかり欠けた月はまるで、酔った自分を責め立てる際の妻の瞳に思えた。

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