第15話

 正面に回るのかと思いきや、テラスの真下に向かって小走りに進んだ菫は次の瞬間には空高く舞い上がっていた。


 手を握った碧もまた身体を宙に浮かせており、思わず下を眺めた彼女は落下の恐怖を考えるあまり両手で菫の手にしがみついた。


 そんな碧を見ながら可笑しそうに微笑む菫は、手すりを通り越してテラスの地面にふんわり着地するとそのまま室内に向かって歩き進んだ。


「ねぇ、今飛んでた……」


 ようやく声を発することができた碧は、彼女に続いて屋敷内を眺めた。


 柱も含めて一面が白い壁に覆われたその部屋は天井がやけに高く、遥か上方にはシャンデリアがぶら下がっている。


 室内には巨大な彫刻や調度品、絵画などが飾られ、繊細な模様で描かれた敷物、レースの天蓋がついたベッドなどはまさしくお姫様の寝室という趣があった。


「さっき飛び降りちゃったから、扉の鍵を持ってなかったんです。それにお部屋を紹介するなら飛んだ方が早いし」


 笑顔で話す菫を見ながら、碧は度肝を抜かれていた。


 言葉を失った彼女をよそに、室内を走って横切った菫は勢いよくベッドに飛び込んだ。ドレスの裾がめくれ、太腿の辺りまで露わになった彼女は多分に色気を含んだ目つきで碧を見遣り、手招きしている。


 つられてベッドに向かった碧が隣に腰かけると、それはまるで雲の上のように柔らかな感触だった。彼女の手にそっと触れた菫は、「飲み物はいかが?」と尋ねた。


 すると突然ベッドの前にテーブルが出現し、その上にはティーポットとカップが二つ置かれていた。


 思わず目を擦った碧がティーポットに手を翳すと、それは温かった。


「すごい、どうやって出したの!?」


 碧が興奮した様子で尋ねると、どこか不思議そうに彼女を見つめ返した菫は「碧さんはできないんですか?」と首を傾げて言った。


「一度見たことのあるものなら、私はこうやって出すことができますよ」


 それを聞いて、碧は思いのほかショックを受けた。目の前の少女は難なく空を飛んで見せただけでなく、自在に欲しいものを生み出してしまう。


 他人の夢を覗き見れるだけでも卓越した力だと自負していた彼女は、ささやかな自尊心を打ち砕かれた思いだった。


「でも私、に行く方法があるなんて今まで知らなかったです」


 カップに紅茶を注いだ菫は、それを碧に差し出し、「碧さんはすごいです!」と目を輝かせながら言った。


「どうして、私がこの夢の住人じゃないって分かったの?」


 カップを受け取った碧は、紅茶を一口飲んだ。ほんのりと口当たりの甘いその味は、彼女が先ほど自宅で味わった安物のココアとは比べ物にならないほど上品なものだった。


「だってほら、そこに――」


 菫は碧の頭上を指さし、「水色の光が伸びてますよ」


 昼休みに彼女が友人たちの頭上をちらちら眺めているのを見た時から、そうではないかと碧は思っていた。


 彼女ににとって初対面の相手は、顔よりもまず頭上の光に目がいく。それは人物によって色合いの異なる光の柱を確認する行為であり、長い間自然とやってきたことだった。自身の夢の登場人物にはそれが見られなくなることを菫も知っているのだろう。


「やっぱり、菫ちゃんも――」


 謎に満ちた世界を開拓していく喜び。それを共有できる相手にようやく巡り会えた碧は、高揚感から菫の肩を掴んで向き合った。その拍子に菫がベッドに倒れ込むと、計らずも押し倒す形となった


「ご、ごめん……」


 碧は謝罪の言葉を述べながら、彼女の美しさについ見とれてしまった。


 肩に沿って浮き出た鎖骨、細長い首筋。見るからに柔らかそうな唇、紅潮した頬。透明感に満ちた瞳、長いまつ毛、きめ細やかな肌。


 まさにそれは、性別を超越した美の象徴だった。


 ほんの少し力を込めただけで折れてしまいそうな手首を掴んでいた碧は、恥じらうように目を逸らす菫を見てふと我に返った。


「……菫ちゃんはすごいね。私、こんなに素敵な夢は初めてだよ」


「すごいのは碧さんです。私はお屋敷に閉じ籠ってばかりだから」


 彼女の顔を見上げた菫は、ため息交じりにそう言った。「他の人の夢を見に行こうなんて、私は一度も考えたことなかった」


「その気になれば、菫ちゃんにもきっとすぐにできちゃうよ」


 自身の夢をあれほど支配できる彼女なら、碧にできることの大抵は出来てしまうだろう。それが嬉しくもあり、同時に少し悔しくもあった。


「ほんと?」


 碧の言葉にゆっくりと上体を起こした菫は、着崩れして片方の肩を剥き出しにしたまま、「私も碧さんの夢に遊びに行くことができますか?」と言った。


「私の夢なんて、来ても全然楽しくないけどね」


「私行きたいです、行ってみたい!」


 声を上げながら迫る菫に、碧は心臓の鼓動が高く跳ね上がった。熱心な目つきに彼女は思わず口元を緩めると、「いいよ。それじゃ、やり方を教えてあげる」と答えて立ち上がった。


 けれど菫は慌てて彼女の手首を掴むと、自分の方へ引き寄せながら碧を上目遣いに眺めた。


「どうしたの?」と碧が尋ねると、彼女は何度か口をもごもごと動かした後、「せっかく碧さんが遊びに来てくれたし、今夜はその……、私の夢を案内したい」と小声で言った。


「もしかして、自慢したいの?」


 碧が悪戯っぽく言うと、菫は顔を真っ赤に染め上げながら小さく頷いた。意外と子供っぽい所があるものだと思いながら彼女を見遣った碧は、ふと肩を抜いてベッドに横になった。


「それじゃあ今夜は、菫ちゃんの夢を満喫させてもらおうかな」


 すると彼女の隣に並んで横たわった菫は、うきうきした様子で碧を見つめ、「私、頑張って案内するね!」と意気込んで言った。

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