第14話
その日の帰宅後、テスト勉強に飽きた碧は早めに眠ることにした。まだ本番は先なので無理に詰め込むような時期ではないと判断した結果だったが、実のところ他に関心事があり、そちらに気が散って集中ができなかった。
「さて」
暗闇の中で目を閉じた碧は、眠りに誘われるまま夢の中へと旅立った。
「……さむっ」
そこは自身の寝室だったが、眠る前に消したはずの卓上灯は点灯しており、起き上がってカーテンを開くと五月だというのに雪が降り積もっていた。
枕の横に置いてあった携帯電話をつかんだ碧は、自身に向けてショートメッセージを送り始めた。
――私は現実の世界にいる。
送信して数秒待つと、受信箱にメッセージが届いた。中身を確認すると内容が一部変更されていた。
――私は夢の世界にいる。
日によって差があるものの、夢の中で自身に送ったメッセージには必ず変更が加えられることから碧は夢と現実の区別をつけるために毎度この方式を取ることにしていた。
部屋の隅に置かれた全身鏡で自身の姿を眺めると、早くも夏用の制服を着用していた。白い半そでのワイシャツに春の制服よりも薄い生地のスカート。こちらは紺色の割合を多く含む春用と異なり、ベージュを中心としたデザインである。
現実世界でもまもなく衣替えになるはずだが、自身の夢の中は未だ冬景色だというのにその辺りの辻褄を合わせようとはしてくれないものか。
二階の自室を後にした碧は、階段を下ってバスルームに向かった。夢の中の自宅は静まり返り、両親の姿はない。表では車のクラクションやバイクの走行音などが聞こえることから他人の生活の営みは存在しているようだが、これまで自宅では誰にも出会ったことがなかった。
湯船に湯を溜め始めた彼女はそれを待つ間にキッチンへ行き、ココアを入れて飲んだ。このルーティンをしないと寒くて仕方がない。
しばらくしてバスルームに戻ると湯船の半分程度に湯が溜まっていた。衣服をすべて脱ぐのが入浴の作法かもしれないが、それは現実世界に限っての話だ。
「確か、紫色だったよね」
温度を確かめた彼女は、指で鼻をつまみながら湯船の中に飛び込んだ。身体は湯船の底をすり抜け、果てしなく広がる水中に沈み込んでいく。
目を閉じた碧は、昼間に見たあの美しい顔を思い浮かべた。切れ長の目つきに、さらさらの髪。風に揺られて漂う、お花畑のような香り。
しばらくして目を開くと、真っ暗闇の中で垂直に伸びる薄紫色の光を視認することができた。その地点まで泳ぎ進んだ碧は、光の糸にそっと手を触れる。すると餌にかかった魚のように身体が引き上げられ、ゆっくりと浮上していった。
水面から顔を出した碧は、小高い丘の麓に立っていた。周囲には牧草地が広がり、丘の頂上には西洋風のお屋敷が一軒立っている。
蛇行する一本道を歩き進むと、やがて建物の全体像を見渡すことができた。一面が白い壁、中央には数段の階段を上った先に大きな四角い扉が設置されている。格子状の窓が左右対称に二つずつ配置され、二階にも同じ箇所に窓が見られた。凸型をした屋根の真ん中には、屋根裏部屋らしき小さな丸い窓が見える。
一見するとお屋敷の体を成しているものの、印象としては校舎を連想させた。奥行きは計り知れないほどに広く、建物の左側に回り込んだ碧は二階に広がったテラスに佇む一人の少女の姿を捉えた。
まるで中世ヨーロッパの貴婦人が纏うようなボリュームのあるドレスを着た彼女は、片手にジョウロを持ってテラスに咲いた花々に水をやっている。
顔は確認できないものの、間違いなくあの子がこの夢の主であることが碧には分かった。
彼女の頭頂部には薄紫色の光が伸び、それが空に向かって続いている。光は頭上の辺りが最も色濃く現れ、天に昇っていくほど視認性が低くなっていく。
碧は昔から、個人を特定する光の糸を見分けることができた。色合いは人によって異なり、例えば亜美なら黄色、朝陽なら橙色の光が頭上に伸びている。これが一体何を意味するのか初めのうちは彼女にも分からなかったが、小学生の頃にその活用方法を知るに至った。
最近では気心の知れた者以外の夢を訪れることを避けていたが、碧は昼間耳にした夢の中で遊ぶという言葉が引っかかっていた。単に夢を見るだけなら“遊ぶ”などという言葉は選ばないはずだ。
ひょっとしたら彼女も同類なのではないかという淡い期待を胸に抱いた碧は、好奇心に導かれて彼女の夢を訪れた。
二階の人物を見つめ続けていると、しばらくして碧の存在に気づいたようだった。やはりそれは藤咲菫その人であり、美しく着飾った彼女は碧の姿を見た途端にジョウロを手放すと、テラスから身を乗り出した。
大袈裟に手を振る彼女がやけに可愛らしく思えた碧は、控えめに手を振り返してはにかんだ。
碧が玄関を指さして正面に回る意思を示すと、どこか焦ったように手すりに足をかけた菫はそのままテラスから飛び降りた。
命を失うほどの高さとまではいかないまでも、着地に失敗すれば大怪我をしかねない。思わず両手で顔を覆った碧がしばらくして目を開くと、彼女の姿はなかった。
「碧さん」
声に反応して背後を振り返ると、そこには笑みを浮かべる菫の姿があった。彼女が無事だったことに安堵した碧は、ほっとため息をもらした。
菫は貴族の御令嬢よろしくスカートの裾を捲り上げながら仰々しくお辞儀すると、続いて碧の手を取りながら「遊びに来てくれたんですね!」と言った。
……来てくれた。
やはり彼女も同じように夢を渡ることができるのではないかと碧は思ったが、続いて菫が「どうやってここに?」と尋ねたのでそうではないのだと分かった。
「菫ちゃんと、夢で遊んでみたくて」
碧の言葉に彼女は握った手を引くと、「お部屋を見てもらいたいわ!」と言って歩き出した。
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