第12話

 給湯室で彼女の後ろ姿を見かけた航はすぐさま声を発しかけたが、そこにはすでに先客がいた。それは部署内で“みっちゃん”と呼称されている峯岸という女性社員で、彼女は航よりも三つほど年次が上の先輩でもあった。


 今井の隣に立って何か話し込んでいる様子だったので、ひょっとしたら自分よりもいち早く動いた人間がいるのかと航は予想したが、聞こえてきた会話の内容からその可能性がないことをすぐに悟った。


「立脇さんに頼まれただけなのに、何であんたは速水さんにまで注文取りに行くわけ?」


「一応、皆さんにも聞いた方が良いかと思ったので」


「それが余計だって言うのよ」


 峯岸は今井を睨みつけ、「どうせ速水さんに言い寄るつもりなんでしょ。魂胆が見え見えなんだから」


「私は別に、速水先輩に特別な感情は……」


「口ごたえするんじゃないの! 移動してきたばっかりのくせに、ほんと生意気なんだから」


 峯岸は彼女の肩を小突き、「大体あんたね、若いからって調子に乗ってんでしょ。真っ先に男連中に媚売ってる暇があったら、まず私にお茶でも淹れたらどうなの?」


「えっと、それはつまりどういう……」


「取り入る相手を間違えるなって言ってんの! ほんと、物分かりの悪い子なんだから。良い? 今度私の邪魔したら、ただじゃ済まないから」


 うな垂れた今井が口を噤むと、「分かってんのかって聞いてんの!」と言って峯岸は彼女の髪を掴み、乱暴に引っ張り始めた。


 さすがにそこで痺れを切らした航は、無意識に飛び出していた。


「何やってんすか、峯岸さん!」


 声に反応して咄嗟に手を離した峯岸は航の方を振り向くと、なぜか安堵したようにため息を漏らした。


「なんだ、葉瀬川くんか」


「乱暴は良くないですよ」


「何言ってんの。女性社員同士の教育にいちいち口挟まないでくれる?」


「教育?」


 航は杖を握っていた拳に力を込め、「それは単なる嫌がらせですよね?」と率直な意見を述べた。「今の会話も、全部聞こえてましたよ」


「ああ、そう」


 峯岸は一瞬きまり悪そうに目を逸らしたが、すぐに航を睨みつけ、「だとしても、あなたには関係のないことでしょ」と答えた。


「峯岸さん、そういうのみっともないですよ」


 航は杖をついて少しばかり前に出ながら、「見なかったことにしますから、今後はそんなことやめてくれませんか?」と諭すように言った。


「速水さんにも言いませんし」


「なっ! 何でそこで、速水さんの名前が出てくるのよ!」


 憤慨したように声を荒げた峯岸は、その場を立ち去ろうと歩き出した。彼の横を通り過ぎる際に杖の先に足が触れると、態勢を崩した航を今井が何とか支える形となった。


「大丈夫ですか、先輩?」


「あぁ。大丈夫だ。ありがとう」


 立ち止まって二人の遣り取りを眺めていた峯岸は、今井に抱きかかえられた航を鼻で笑うと、「ふん。みっともないのはどっちよ。障害者のくせに」と悪態をつきながら給湯室を出て行った。


「……みっともないか」


 今井から身体を離し、自力で態勢を取り戻した航は左膝に手を触れた。必死にリハビリを行い、禁酒を続け、健康的に身体を保ってはいるものの、失った左足の感覚は二度と戻って来ない。


 未だにその現状を受け入れられず、誰よりも自分のハンデに対して劣等感を抱いているのは彼自身だった。


 静かに俯いた彼の姿を見た今井は、しばらくの間黙って様子を窺っていたが、「声をかけてくださってありがとうございます、先輩」とやがてお礼の言葉を述べた。


 顔を上げた航は彼女の方を向き、「そっちは? 怪我とかしてない?」


「はい、大丈夫です」


「移動したばかりなのに、災難だったな」


 航の言葉に小さく唸り声を上げた今井は、「まぁ、気持ちは分かりますから」と答えた。


 続けて彼の瞳をじっと覗き込んだ彼女は、「それより先輩、あの登場の仕方はちょっと問題でしたね」と言って苦笑いを浮かべていた。


「――はっはっは。それはえらいところを見ちまったもんだ」


 喫煙所で煙草を蒸かす繁盛は、航の話を聞くと腹を抱えて笑い始めた。


「笑い事じゃ済まない話ですけどね」


 真面目な顔をして航が答えると、繁盛は再び煙草を蒸かし、「まぁ、そうだな。峯岸に関しては時々良くない噂も聞いていたが、実際にそういう場面に出くわしたことがなかったから注意するまでには至らなかったんだ。お前が対応くれて良かったよ」


「登場の仕方に問題があるって、今井には言われてしまいました」


「そりゃお前に聞いた話だと、良くはなかったんじゃないか?」


「そうですか? 間一髪ってところだったと思いますけど」


 納得できないといった表情で航が答えると、繁盛は目を丸くした後、「お前はなかなか骨のある奴だが、そういうところがまだ餓鬼だな」と言って笑った。


 煙草を灰皿に押し消した繁盛は航の肩に手を置き、「葉瀬川よ。お前には正義感もあって、それを実行する行動力もある。だがな、ちょっとばかし素直過ぎるんだよ」と言った。


「あの場面で峯岸のところに出て行って、そのうえ抗議までして、揉め事になるとは考えなかったか?」


「多少は揉めるだろうと思いましたが、僕はそういうのには慣れてますし」


「そこだよ」と言って彼を指さした繁盛は、ため息をつきながら肩を竦めた。


「お前は自分が傷つくことに対して妙に無頓着なところがある。そこがまず一つ。もう一つは周到さだな。例えば二人の遣り取りがひと通り終わって、峯岸が一人になった頃合を見計らって話した方が、もう少し穏便に済んだとは思わんか?」


「でもそれじゃ、今井がひどい目に遭っているのを見逃すことになります」


 航がむきになって答えると、繁盛は何度か頷いてから「うん。お前の気持ちは分かる」と言った。


「だがな、それならその場は偶然給湯室に来たフリを装って、二人を引き離すことだってできたはずだろ」


「…………」


「たとえその場では解決に至らなくとも、今後起きないよう裏できっちりと手を打ってやる方が相手のためになることもあるんだよ。俺も峯岸の肩を持つわけじゃないが、後輩の前でお前のような奴にド正論をかまされたんじゃ、面目は丸つぶれだからな」


「だってそれは――」と航が反論しようとすると、それを手で制した繁盛は二本目の煙草に火をつけた。


「あの場を助けられた今井にしたってそうだ。逆上した峯岸からお前がとばっちり食らうのを見せられたら、感謝以前に申し訳ない気持ちになるだろ」


「……確かに。そうですね」


「立ち向かって解決しようっていう心意気は良いんだよ。問題はそれをいかにスマートに、かつ目立たないようにやるかだ。大人ってもんは、そういう泥臭いところを他人には見られないようにするべきなんだ」


「なるほど」


 航は入社当時にも、繁盛から同じような助言を受けていた。それゆえ今回の問題に対しては意識して行動に移したつもりだったが、いざ目の前で困っている人を見てしまうと彼はどうにもその衝動を抑えることができなかった。


「はい。以後気をつけます」


 航が頭を下げると繁盛は嬉しそうに彼の頭をポンと叩き、「お前は間違ってない。それだけは自信持っていけ」と言った。


「お茶汲みの件に関しては、ひとまず俺に任せてくれていいから」


「ありがとうございます」


 再び頭を上げた航は、続いて繁盛の顔を見遣ると薄っすら笑みを浮かべ、「ところで繁盛さん。あなたの口から“スマート”なんて言葉が出て来るなんて、僕は夢にも思いませんでしたよ」と彼を茶化すように言った。


「はっはっは。お前はそういう生意気なところも、まだ餓鬼だな」


 恰幅の良い体つきをした繁盛は航の背中を力強く叩くと、「ほら、さっさと仕事に戻るぞ」と言って喫煙所を出て行った。

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