第11話

「葉瀬川先輩! おはようございます」


「おう、今井か。おはよう」


 杖をつきながら航が駅の階段を下っていると、後輩の今井が挨拶を寄こした。


「こんなに混んでるのに、階段なんて使って大丈夫なんですか?」


 今井は慌てて肩を貸そうとしたが、航としてはわざとこうして毎朝階段を利用しているので、その好意をやんわり断って自力で歩き続けた。


「大丈夫だよ。これも訓練の一環だから」


「訓練ですか?」


「そうだよ。楽をして身体が鈍ってしまうといけないからね」


 階段を下りきった航は一息ついてから額の汗を拭い、「少しでも健康的な身体であろうと僕も日々精進しているわけさ」


「精進は良いですけど、万が一誰かに突き落とされたらどうするんですか。せめて会社の階段とか、もっと人通りの少ないところで訓練してくださいよ」


 今井は鞄から小ぶりの水筒を取り出したが、航はそれも笑顔で断り、「ありがとう。でもね、それじゃ意味がないんだ」と答えた。


「意味はありますよ。身体を鍛えるなら、どこだって同じじゃないですか」


「同じじゃない。僕にとってはね」


 再び歩き出した航は、改札を抜けて会社に向かう道を進み始めた。


「僕は少しばかり足が不自由だけど、それでもなるべくなら健常者と同じように生活をしたいと思っているんだ。要は負けず嫌いってことになるのかな」


「負けず嫌い……」


 航の後を追った今井は、彼のペースに合わせて歩きながら「何だか意外です。先輩って、もっと冷めた人なのかと思ってました」と言った。


「はは。それほど熱血でもないけどな」


 今井は最近になって水橋の代わりに部署移動を言い渡された女性で、航にとっては直属の部下にあたる。突然の移動で戸惑うかと思われたが、彼女は気が利くうえに物覚えも早く、こう言ってはなんだが水橋に比べて使い勝手の良い部下という印象が強かった。


「新しい部署にはもう慣れた?」


「はい。先輩のおかげです」


「僕は何もしていないけど」


 少しばかり照れたように航が答えていると、今井は眉をしかめ、「でも、仕事の方はまだまだです。覚えることが多くて大変ですね」


「初めのうちはそんなもんさ。僕も繁盛さんに随分としごかれたもんだよ」


「へぇ。私はてっきり先輩のことだから、すぐに仕事を覚えて即戦力になったのかと思ってました」


「買い被り過ぎだよ。僕はそれほど優秀な人間でもないし、入社三年目の今も雑用みたいな仕事ばかり押し付けられてるんだから」


「それを難なくこなしている姿がとても優秀に見えてしまうのは、私だけでしょうか?」


 航の顔を覗き込んだ今井の口元は、薄っすらと潤っていた。


 彼女には不思議な魅力があった。緩い外はねの髪に小綺麗な服装と清潔感は感じられるものの、美人という枠に属する女性とは言えずむしろ地味な印象を受ける者が多いように思われた。


 けれど彼女の瞳には、どこか人を惹きつけるものがある。


 それは一輪の花や舞い降る雪のように健全な美しさではなく、船乗りたちを波間に誘い込む魅惑の歌声にも似た一種の罠に形容したくなる代物だが、危うい仕掛けの向こうには何かとてつもない対価が待ち受けているのではないか勘繰ってしまう。


「まぁ、事務仕事を捌くのは早い方かもな。早く家に帰りたいから」


 航は思いのほか顔を近づける彼女に戸惑いつつ、「新しい環境に移ったばかりだから、新鮮に感じられるだけさ」と言った。


「そういうものですか」


 前に向き直った今井は感心したようにそう言うと、「ところで先輩って、一人暮らしでしたっけ?」と尋ねた。


「いや。僕はずっと家族と同居だよ」


「なーんだ。私はてっきり、彼女さんが部屋で待ってるから早く帰りたいのかと」


「いないよ、恋人なんて」


 苦笑いを浮かべる彼を見つめた今井は、「こんなに素敵なのに、おかしいですねぇ」と耳元で囁くように言うと、意味深な笑みを浮かべて歩き出した。


 出社してデスクについた航は、朝のメールチェックを行った。食品メーカーの企画部に務める彼は現在新商品の市場調査にあたっており、今井もまたそのサポートをしながら先輩社員たちの動向を見て学んでいくという形で仕事に就いていた。


「葉瀬川。会議で使う資料なんだが、至急訂正してもらいたい箇所があってな」


 航のそばに寄った先輩社員の速水は、彼が鞄から出した資料を眺め、「ここと、あとここ。修正点はメールしとくから。葉瀬川なら十分間に合わせられると思うけど、頼むな」


「了解しました」


「うん。助かる」


 航の肩に軽く触れた速水は、てきぱきとした動作で自身のデスクに戻っていった。


 彼は今回の新商品開発の企画立案者で、今までにも次々とヒット商品を生み出している。スマートかつ迅速な仕事ぶりは社内でも評判で、特に女性社員からは端麗な顔立ちから違う意味でも絶大な支持を得ていた。


「信頼されてますね」


 隣のデスクに腰かけた今井は小声でそう言うと、デスクに置かれたパソコンを起動しつつ、「それじゃ私は、昨日のデータ集計の続きをしておきます」


「おう、悪いな。本当は朝から次の工程を教える手はずだったのに」


「いえいえ。またお手隙の時にでも」


 今井が仕事に入ろうとデスクに向かうと、「今井ちゃん。コーヒー淹れてくんない?」と遠くから呼びかける者があった。


 仕事を中断して席を立った彼女は、他の者にもひと通り注文を取り終えてからオフィスを後にした。


「やれやれ。またか」


 以前にいた水橋に比べ、今井は会議室の掃除やお茶汲みなどの雑務でこき使われることが多く、仕事を教えている最中にも中座せざるを得ない状況が多々見られた。本人は嫌な顔一つしないが、これではいつまで経っても新人教育が進まないうえに社内にあるべきではないルールが定着しかねない。


「ここは一つ、僕が動かないとかなぁ」


 速水からの修正メールはまだ届いていない。席を立った航は杖を手に取って歩き出した。他人のお茶汲みを仕事の一環と勘違いされては、たまったものではない。


 これまでの社会人生活から彼は、世渡りというものを徐々に覚えつつあった。学生時代はどちらかと言えば思ったことを素直に口にしてしまうタイプで、これまでにもそれが原因で様々な衝突を繰り返してきた。


 自身を見直すようになったきっかけは、やはり就職をしたことが大きい。会社という閉塞的な空間では、声を大にして正論をかざせば意見が通るというものでもない。


 正論が間違いだとは言わないが、それを伝える相手や順序などによって結果は大いに左右される。逆を言えば、間違った方法論や価値観ですら大多数の賛同を得られればすんなりと可決されてしまう恐ろしい世界なのだ。


 今回の場合、被害を受けている当人が声を上げることはおよそ困難であり、航が一人で騒いだところでマイノリティの扱いを受けることだろう。


 大事なのは情報と根回し。それさえ掴んでしまえば、多少の融通を利かすことくらい彼にもできる。


「繁盛さん、後で一緒にこれ行きませんか?」


「おう、葉瀬川。今ちょっと忙しいから、二十分後くらいでいいか?」


 指を二本立てる仕草は喫煙所への誘い。後輩から先輩への誘いは、すなわち何かしらの相談事であるとすぐに察するのが良い上司の証だ。


 繁盛は仕事に関して厳しいところがあるものの、曲がったことや不条理なことに対しては否定的な考えを持っている。上層部にも強く意見を言える人間なので、航としても一目置いていた。


 さて。今井とは先に話をしておくか。


 オフィスを横切った彼は、そのまま給湯室に向かった。

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