航 5月11日

第10話

 夢の中で津波に飲み込まれた葉瀬川航は、気づけば自室で目を覚ましていた。


「早くご飯食べちゃってよ! 私、遅刻しちゃうじゃん」


 妹のつむぎがものすごい剣幕で怒鳴りながら布団を揺すっていた。カーテンは開け放たれ、目を開くのが痛いほどに太陽光が室内を満たしている。


 僅かに目を開いた航は、近くで鳴っている目覚まし時計を手に取った。確かに少々まずい時間ではあるものの、素早く準備を整えればまだ間に合うはずだ。


「紬よ。もう少し早く起こせないもんかな」


「は? 起こしてあげただけ感謝しなさいよ」


 ブレザー姿の妹は、腰に両手を当てながら航を睨みつけた。


「食べないならもう片付けちゃうけど。それか、お兄が一人で片づけまでするの?」


「起きます」


 素直に従って航が布団から起き上がるのを確認した紬は、さっさと部屋から出て行った。


「早くしてよね!」


 なおも部屋の外で叫ぶ妹の声を聞いた航は、携帯電話を手に立ち上がると机の上に飾られた写真に目を遣った。


 中学時代の彼は、不機嫌そうな顔で佇んでいる。それは家族旅行の際に家の前で撮影した写真で、彼の隣にはまだ小学生の紬が、後ろには両親が笑顔で立っていた。


 まさかこれが最後の家族写真になるとは、誰も想像していなかったことだろう。


「紬も今年はもう受験生か」


 机のそばに置かれた革鞄を開いた航は、会議で使用する資料がきちんと入っていることを確認してから部屋を出た。


「――あれ。紬、牛乳は?」


 スーツに着替えてリビングにやって来た航は、冷蔵庫の中をまじまじと見つめながら言った。すると先に食事を終えた父親が胸を張りながら、「残念。さっき俺が飲んじまった」と得意げに答えた。


「なんで全部飲んじゃうんだよ。僕が朝に牛乳を飲むってことくらい知ってるだろ」


「お前が朝寝坊なんかするからだ」と快活に答えた父親は、椅子から立ち上がると航の肩を力強く叩いた。


「それにしたって、親父は一度に飲みすぎなんだよ。まだ半分近く残ってたろ?」


「ったく。いちいち細かい奴だな」


 面倒臭そうに応えた父親は妹の方を向き、「紬。今日の現場は遅くなりそうだから、二人で先に飯食っといてくれ」と優しい口調で言った。


「うん」


「そんじゃ、張り切って仕事に行って来るか!」


「帰りに牛乳買って来いよな」


 航が去り際の父親にそう言うと、「やなこった」と答えた彼は手を振って出て行った。


「行ってきまーす!」


 玄関の方から、やたらと大声で叫ぶ父親の声が聞こえてきた。


 ため息を漏らして食卓に腰かけた航は携帯電話でインターネットを開くと、ニュース欄をひと通り眺めた。その中の一つには、数ヵ月前に亡くなった水橋嶺二の記事が端の方にひっそりと載っていた。


 航の会社の一つ後輩にあたる水橋嶺二は都内で一人暮らしをしていたが、ある日自室のベッドで亡くなっていた。


 何日も無断欠勤が続いた上に音信不通だったため会社側から両親に連絡が行き、都内近郊に暮らす母親が様子を見に行ったことで遺体を発見するに至った。


 遺体には鋭利な刃物で腹部を複数回刺された跡が見つかり、警察も当初は殺人事件とみて捜査を進めていたが、事件当日の夜はすべての進入路に鍵がかかっており、何者かが侵入した痕跡や争った様子もなかった。


 その後の捜査でも有力な証拠は見つからず、結局は自殺と断定せざるを得なかったようだ。


 記事を書いたライターは、この事件には未だ不可解な点が多いと他殺の可能性を示唆しているが、遺体はすでに遺族の元に渡って火葬されており再調査は不可能。『警察の不適当な捜査により、真相は闇の中だ』という煽り文句で記事は締め括られていた。


「この記事、すぐに削除されそうだな」


 ライターの名前は高倉脩平しゅうへい。恐らく個人記者か、ゴシップ系の弱小編集社に務める人間に違いない。


 事件のことをあまり大袈裟に騒ぎ立てられると会社の心象が悪くなるうえ、遺族にも迷惑がかかるのでやめてもらいたいものだと航は思っていた。


「はい、これ」


 航が顔を上げると、妹がコップに注がれた牛乳をテーブルの上に置いた。直前まで冷蔵庫に入れられていたのか、コップの周囲が曇っている。


「親父が全部飲んだんじゃなかったのか?」


 航が尋ねると、妹は肩を竦めながら「あの遣り取りはもう見飽きてるし」と答えた。「お兄が飲む分だけ、先にコップに移しといたの」


「それならそうと、先に言ってくれれば良かったのに」


「そんなことしたら、またお父さんがわざと飲んじゃうじゃん」


「なるほど」


 航の向かいに腰かけた紬は、呆れた顔つきで携帯電話を弄り始めた。


「いい歳した男たちが朝から牛乳の取り合いなんて、ほんと馬鹿」


「そう思うのなら、多めに買っといてくれたら良いじゃないか」と航は答えかけたが、それくらいの配慮はすでにしていることくらい彼も分かっていた。


 昨晩のクリームシチューに使用した分で、計算が狂ったのだろう。


「紬はもう学校行っていいぞ。皿は自分で洗うから。そろそろ時間まずいだろ」


「え、マジ?」


 携帯電話から顔を上げた紬は、意気揚々と立ち上がった。「お兄が皿洗いなんて珍しいじゃん。またお皿割らないでよね」


「分かってるよ」


「それじゃ、お先に。今夜は昨日のあまりをリメイクしてグラタンだから」


 機嫌よくそう言うと、鞄を肩にかけた紬は手を振りながらリビングを出て行った。


「行ってきまーす!」


 玄関の方から妹が大声で叫ぶのが聞こえると、去り際の振る舞いが似ている辺りまさしく親子だなと航は思った。

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