第9話

「菫さん。ちょっといいかしら」


 亜美と一緒に帰宅した日から早二日。三限目に行われた体育の授業も終わり、皆が教室へ引き上げかけた頃に莉緒菜はこっそりと菫を呼びつけた。学校では菫と距離を置いていたはずの彼女だったが、突然声をかけてきたことには少なからず驚かされた。


 菫が後に従うと、人気のない体育館裏で立ち止まった莉緒菜は振り返って突然涙をこぼし始めた。


 泣きだした理由が分からず菫が困惑していると、正面から彼女の両肩を掴んだ莉緒菜は「このまま私から離れてしまうんでしょ!」と声を上げた。


「離れるって、どうして?」


 目の前で身体を震わせる莉緒菜に向かい菫が尋ねると、「最近私を避けてるみたいだし、あの人といる方が楽しいって顔に書いてあるもの」と彼女は恨めしそうに言った。


「あの人って……」


 亜美と二人で帰宅した日のことを思い出した菫は、その後に出会った莉緒菜がひどく不機嫌だったことに思い至った。


「ねぇ、そうなんでしょ!」


 ひょっとすると彼女は、亜美に友人の座を奪われてしまうのではないかと不安に思ったのかもしれない。


「でも、莉緒菜ちゃんだって学校では全然話してくれないし。意地悪なことだって……」


 菫が小声で言い返すと、莉緒菜は怒ったように眉間に皺を寄せ、「だから今日は話しかけたじゃない!」と怒鳴りつけた。


 突然の大声に菫が肩を強張らせると、莉緒菜は焦ったように彼女の肩をなで始めた。


「私、意地悪なんてしてないわ。あなたのことが大好きだから、少しからかっただけなの。不本意にあなたを傷つけてしまったのなら、本当に申し訳なく思っているわ」


 力なくうな垂れた莉緒菜は、菫の体操服の一部を指先でそっと握りしめながらまたも涙を流した。


「お願いだから、私のことを見捨てないで」


「見捨てるなんて」


 いつものことなのに、それでも泣いて許しを請う彼女に哀れみを抱いてしまう菫は、「私は別に、気にしてないから」と声をかけた。すると莉緒菜は両手で彼女の手を握り込み、「良かった……」と呟いた。


 顔を上げて涙交じりの笑顔を浮かべる莉緒菜は、「今日はそれだけ伝えたかったの」と言うと体育館に向かって歩き始めたが、扉から館内を覗いた彼女は困り果てたような顔つきで菫の方を振り返った。


「私、先生から用具の片づけを頼まれていたのに、今からじゃとても次の授業に間に合わない」


 瞳を潤ませ、すがるような目つきで見つめる彼女の瞳を見た菫は、「私も、手伝うから」と思わず口にしていた。


 手分けしてマットやラケットを体育倉庫にしまい、急げばどうにか次の授業には間に合いそうなペースで片付けは進んでいった。莉緒菜はどこか上機嫌で、先ほどの涙が嘘のようだった。


「これが最後ね。……あれ、鍵はどこに置いたかしら」


「じゃあ、私が持っていくから、莉緒菜ちゃんは鍵を探してね」


 最後のマットを一人で抱えた菫は、体育倉庫に運び込んだ。室内の奥に重ねたマットの山にそれを乗せていると、背後で突然金属の擦れるような重たい音が響いた。


 彼女が振り返ると、開いていたはずの扉は閉ざされ、続いて鍵を回す乾いた音がした。


 菫は扉を動かそうとしたが、それはピクリとも動かない。壁を隔てた向こう側からは笑い声が漏れ聞こえている。


「あらあら。菫さんったら、また引っかかった」


 莉緒菜は笑い交じりにそう言うと扉をコンコンと軽く叩き、「ほんと、だまし甲斐があるんだから」


「ねぇ、開けてよ!」


 菫は必死に訴えたが、莉緒菜は鍵を空中に投げては掴み、投げては掴みと音を立てながら「ねぇ、菫さん。知ってる?」と言った。


「今日はこの後に授業で体育館を使うクラスは一つもないの。今はちょうどテスト期間中で部活もないから、あなたはこのままずーっと、そうね、明日の授業まではここから出ることができないはずよ」


「からかってるだけだよね? ねぇ、莉緒菜ちゃん」


 菫が扉を叩くと、莉緒菜はいっそう甲高い笑い声を上げ、「これはお仕置きよ」と言った。


 その声音は、恐ろしく冷ややかな響きだった。


「私ね、あなたにどうしようもなく憧れているの。これ以上ないってくらいに。そんなあなたは誰かの物になっては駄目。孤高で、美しく、私にとって誰よりも眩しい存在でなくてはならないの!」


 扉の外で足音が動き出し、それが徐々に遠ざかっていく。


「莉緒菜ちゃん、待ってよ!」


 必死に扉を叩くも、やがて足音は聞こえなくなった。その場でうずくまった菫は、静まり返った体育倉庫に一人取り残された。


 昼休みが過ぎ、やがて五限目が過ぎた。それでも体育館に人はやって来ない。


 マットの上で体育座りをした菫は始めのうち静かに啜り泣いていたが、それも乾いてしまうと膝の上に組んだ腕の中に顔を埋めたままじっとしていた。


 本当に誰も来ないのだろうか。


 もう何度目になるのか分からないチャイムの音を聞きながら、菫が埃くさい倉庫内で小さく咳を漏らしていると、扉の外から鍵をまわす音がした。


 左右に開かれた扉の方から「うわっ!」と驚いたように声を上げるのが聞こえて菫が顔を上げると、そこには面識のない女子生徒が立っていた。


 長めのボブカットをしたその子は、口元に手を遣りながら倉庫内の様子を窺ったが、再び菫の方に向き直ると「え、さぼり?」と声をかけた。


 その間抜けな響きが妙におかしく思えた菫は、無意識に吹き出していた。ほんの少し前までは絶望的な悲しさが胸の内を占めていたというのに、不思議なものだ。


「え、いつからいたの? 鍵、掛かってたよね?」と言い終えてすぐ、彼女は気づいたようにはっと目を見開いた。


「もしかして、閉じ込められてたの?」


 体育座りをしたまま縦に首を振る菫を見た彼女は一瞬だけ悲しげな表情を浮かべたが、うな垂れたように肩の力を抜くと「ひどい目に遭ったね」と言って手を差し伸べた。


 菫がそれを掴むと、彼女は力を込めて引っ張り起こした。立ち上がった勢いでよろめいた菫を抱きかかえた彼女は「大丈夫?」と言って顔を覗き込んだ。


 至近距離で向かい合った彼女の瞳を菫が見つめ返すと、相手はなぜか焦ったように目を逸らしながら「えっと、一年生だよね?」と俯いて尋ねた。


 視線の先を追うと、菫が履いた先端の赤い上履きに目を遣っている。彼女は緑色の上履きを履いており、二年生であることに菫は今さらながら気づいた。


「体育の時? どうして誰も探しに来なかったんだろ」


「それは……」と菫が言いかけたところで、「おい碧、そっちいつまでかかってんだよ。早く終わらせて帰ろうぜ」と扉の辺りから男の子の声が聞こえてきた。


「あ、朝陽。見ないで!」


 背後の人物に応えた彼女は、「ちょうど良かった。私、この子を保健室に連れて行かなきゃだからここ任せてもいい?」と言った。


「は? 保健室?」


 倉庫内にひょっこり顔を見せた朝陽だったが、体操服姿の菫に気づくとすぐに顔を引っ込めた。「何か、あった?」


「それがこの子、体育の授業の時にね――」と彼女が言いかけたので、菫はずっと握りっ放しだった手を離して走り出した。


「私は、……大丈夫ですから!」


 そのまま扉を出た菫は、彼女が呼び止めるのも聞かずに体育館を走り抜けた。


「行っちゃった。大丈夫かな」


 どこか名残惜しそうに自身の手のひらを見つめながら碧がそう呟くと、菫の後ろ姿を見送った朝陽は「誰、あの子?」と尋ねた。


「分かんない。一年生みたいだけど」


「一年?」


 朝陽は扉にぶら下がった鍵を見ながら、すぐに彼女が閉じ込められていたことに思い至ったようだった。「誰かにやられたのか?」


「どうだろう。間違って閉じ込められちゃったってことも考えられるし」


 恐らくそれはないだろうと思いつつ、彼女が座っていたマットを眺めた碧は「それにしても、綺麗な子だったな」と小声で呟いていた。

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