第8話

「あなたが藤咲さん?」


 その日の放課後、菫が下駄箱で革靴に履き替えていると、いかにも運動部に所属していそうな溌溂はつらつとした女子生徒が話しかけてきた。


 周囲の者は菫に声をかけるその子を物珍しそうに眺めていたが、彼女は一切気にする素振りを見せず笑顔を浮かべている。


「ちょっといいかな?」


 校内で誰かに声をかけられることなど、随分と久々のことだった。亜美と名乗った上級生のその子はまじまじと菫の顔を眺めると、「へぇ。確かに」と言って目を見開いた。


「何か、御用でしょうか」


 菫が小声で尋ねると、「あ、ごめん」と頭を掻いた亜美は「良かったら一緒に帰らない?」と言った。


 彼女の問いかけに思わず言葉を失った菫は、首を傾げながら思案していた。


 ここは現実の世界で間違いはないの? ひょっとして、授業中にうっかりうたた寝をして、今も私は教室で一人机に突っ伏しているのでは。


 真っすぐに見返す菫の美しい瞳に目を奪われた亜美は思わず息を呑んだが、一向に返事を寄こさない彼女に少しばかり不安そうな表情を浮かべ、「……嫌かな?」と言った。


 菫がそれを否定するように首を振ると、亜美は再び笑みを浮かべて歩き始めた。


「――でさ、今ってテスト期間中でしょ? テストが終わるまで部活動禁止っていうのもひどい話だよね。大会だって近いのにさ」


 亜美は何気ない会話を繰り広げ、時おり菫に質問を投げかけた。それは平凡かつ答えやすいものばかりで、まさしく雑談と呼ぶに相応しい内容だった。


「藤咲さんは部活とか入らないの?」


「私、運動はあまり得意じゃないので」


 彼女の回答を聞いた亜美は、部活の勧誘にでも来たのかと思われたに違いないと察し、「じゃあ、文化系の部活は?」と口にした。「そうは言っても、今からじゃ入りにくい雰囲気はあるかな?」


 菫が苦笑いを浮かべて頷くと、亜美はそっと顔を覗き込み、「藤咲さんって、思ったより大人しい子なんだね」と言った。


「碧にちょっと雰囲気が似てるかも」


「似てる? 私に?」


 菫が興味を示したように思えた亜美は、「その子はね、私の幼馴染で同じ二年生なんだけど、人見知りするから自分からはあんまり人に話しかけられないの」とすかさず答えた。


「でも話してみると、本当にいい子だから」


 絶えず笑みを浮かべて話す亜美をちらりと見遣った菫は、住宅地の十字路で立ち止まると「あの……」と言葉を発しかけた。


 なぜ、私に声を掛けようと思ったの?


 その言葉が喉元まで出かかったが、菫はそのまま口を噤んで俯いた。聞いた途端に彼女の真意を目の当たりにし、現実を突きつけられるような気がして恐かった。


「なに?」


 亜美が再び顔を覗き込むと、それを避けるように目を逸らした菫は「私、こっちですから」と言って歩き出した。


 彼女の姿を目で追った亜美は、「また、学校でね!」と背後から声をかけながら大きく手を振っている。


「だめだ、私……」


 一人きりになった菫は、亜美との会話を反芻しながら後悔の念に打ちひしがれていた。あまりに愛想がなさ過ぎたし、自分からは何も話題を提供することができなかった。


「次は、もっと上手く話せるかな」


 自然と次回を期待している自分に、菫は驚きを隠せなかった。


 去り際に亜美は『また、学校で』と言ってくれた。その言葉がどうにも嬉しく思えた彼女はほんの少し口元を緩めたが、気づけば数メートル先の電柱の前に莉緒菜が立っていた。


「あら、偶然ね。菫さん」


 とぼけた声でそう言いながら菫の方に歩み寄る莉緒菜は、明らかに機嫌が悪そうだった。笑みを浮かべてはいるものの、瞳の奥はどんよりと濁り、力を込めて握りしめる革鞄の取っ手は歪な形に折れ曲がっている。


「これから塾に行くところなんだけどね」


 菫の至近距離に迫った莉緒菜は耳元にそっと顔を寄せると、「ところで菫さん、何か良いことでもあったのかしら」と囁いた。


「べっ、……別に」


 突き刺すような殺気を感じ取った菫は、背中に悪寒が走った。心臓が音を立て、呼吸が浅くなっていく。


 莉緒菜はねっとりとした視線で菫の美しい顔を眺めていたが、やがて彼女の手を取ると「授業に遅れてしまうから、もう行くわね」と優しい口調で言った。


 彼女の手は僅かに震えていた。強張った指先は菫の手のひらに食い込み、今にも皮膚を突き破りそうに思われた。


「い、痛いよ」


「あら、ごめんなさい」


 手を離した莉緒菜は一度にっこり微笑むと、彼女の真横を通り過ぎた。「それじゃあ、菫さん。ね」


 それは先ほど亜美から言われた台詞と全く同じものだったが、莉緒菜の放った言葉の響きはまるで吹雪の中に佇んでいるように冷ややかな心地がした。


 ふと自身の手のひらを見遣ると、爪の跡が食い込んで血が滲んでいた。菫は背後から莉緒菜の姿をじっと見つめていたが、彼女はこちらを振り返ることなく足早にその場を去っていった。

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