菫 5月12日
第7話
「大きくなーれ。大きくなーれ」
朝起きて、学校に行く。それに何の意味があるのか。
制服姿に着替えた藤咲菫は、庭に咲いた一輪の花に水をやっていた。飼っていた犬のマールが中学の頃に突然死を起こし、母親が遺体を庭先に埋めるとまもなくして花が咲き始めた。
周りは象牙色で、中央にいくほど淡い菫色になる花。引っ越しを機に母親が植え替えを行ったが、環境の変化にもへこたれずすくすくと育っているようだった。
「気持ち良いでしょ」
水をやる母親の後ろ姿を思い出しながら、その花に毎朝水をやるのが今ではすっかり彼女の日課となっていた。
「菫? そろそろ出ないと遅刻じゃないか?」
ベランダから顔を覗かせた父親は、不安げな表情で彼女を見つめていた。
「うん。もう少ししたら出る」
しゃがみこんで熱心に花を眺めていた菫は、小ぶりのジョウロを片手に立ち上がるとスカートを翻しながら振り返った。
雪のように白い肌、黒くて艶のある長い髪、目鼻立ちの整った顔と、ひときわ恵まれた外見を持つ彼女は父親に向けて微笑みかけるものの、その表情はどこか虚ろで暗い影を落としていた。
「パパも今から診療所に向かうところだから、途中まで乗せて行ってあげようか」
父親の言葉にゆっくりと首を振った菫は、美しい微笑みを崩さずジョウロの取っ手を両手で掴み、「いいの。パパは先に出て」と答えた。
「そうか? それじゃあ、戸締りはきちんとするんだぞ」
「うん」
「夕食までには戻るから、気をつけていくようにな」
部屋に戻った父親は顔だけで一度振り返り、「気分が優れない時は、いつでも診療所に来なさい」と言い残して去った。
ウッドデッキに腰かけた菫は玄関の扉を出て車に乗り込む父親を見送ると、手首に巻かれた腕時計に目を遣った。
「もう、こんな時間」
立ち上がって室内に戻った彼女は窓を閉め、カーテンの隙間からあの花を見遣った。
きれいな菫色をした、あの花。
庭の中に咲き誇る花たちの中で一人孤立した、あの花。
じっと眺めていると花の隣にはいつしか母親が立ち、こちらに向けて手招きしているように感じられた。
「……学校か」
自室の全身鏡に映った制服姿を眺めながら、菫は深いため息を漏らした。彼女にとって、現実は何の意味も持たない。
中学三年の夏頃に母親を亡くし、精神的ショックから立ち直るのに相当の時間を要した彼女は、その際に多くの友人を失った。
そればかりか、彼女の内面では何かが損なわれたという実感があり、空っぽの自分は周囲の者から奇異な目で見られているという強迫観念にとらわれると、より一層殻に閉じこもるようになった。
高校に進学してからは、それも少しばかり緩和されたように思われた。特異な空気を醸し出す彼女は注目を浴び、類まれな美貌から男子生徒の交際申し込みも後を絶たなかった。
中学の終わり頃は他人との関わりを極端に恐れていた彼女だったが、高校に入ってからは親しげに声をかけてくれるクラスメイトたちに歩み寄るべきだと思えるようになるまで精神が回復していた。
「ごきげんよう、菫さん」
「あっ。……莉緒菜ちゃん」
それがまもなくして唐突に終わりを迎えた理由を、菫は知らない。
ある日貧血を起こした彼女は自宅の庭で倒れ、数日間の休みを取ったのち再び学校に行くとそこは見知らぬ環境にすり変わっていた。
あの頃と同じ目、同じ態度――。
クラスメイトは彼女を避け、まるでいないもののように扱った。今の彼女と関わりを持つ唯一の存在は、同じ中学出身の莉緒菜だけだった。
電信柱のそばに立った莉緒菜はくせ毛の髪をアイロンで丹念に伸ばし、上品な佇まいをしている。
菫の至近距離に寄った彼女は柔らかな笑みを浮かべ、「菫さんに贈り物があるの。手を出してくれる?」と言った。
「贈り物?」
言われるままに菫が右手を差し出すと、すかさずそこに自身の手を重ね合わせた莉緒菜は中身が見えないように思い切り握り込ませた。
柔らかな布のようなものが触れ、何かがくしゃりと潰れる感触があった。
思わずゾッとしながら菫が拳を開くと、そこには綺麗な青い光沢を放つ蝶の残骸があった。
「ぎゃっ!」
菫が咄嗟にそれを払い落とすと、莉緒菜は先ほどとはまた色味の違った笑みを浮かべ、「ひどいじゃない、菫さん」と言った。
「私からの贈り物を殺してしまうなんて」
「私は、……そんな」
身体をばらばらにされて地面に散らばった蝶の残骸は、風に吹かれて宙を舞った。ほんの一瞬、綺麗な青い鱗粉が風に乗って輝いたが、それもすぐに視界から消えてしまった。
「珍しい蝶を庭で見かけたものだから、菫さんにも見せてあげようと思ったの。でも、あなたがあまりに力一杯握りしめるものだから、その時に潰れてしまったのね」
「私が、殺した……」
菫の青ざめた表情を素早く覗き込んだ莉緒菜は、さも満足そうに口元を緩めると「そんなに気に病まないで。誰だって、間違いは犯すものだから」と言った。
呼吸を荒げて冷や汗を流し、今にもその場に伏してしまいそうな菫を横目に莉緒菜は歩き出した。
「早くしないと、遅刻してしまうわよ」
針金のような髪が、左右に揺れている。莉緒菜の後ろ姿を眺めた菫は、現在の彼女がまるで理解できなかった。
中学三年に上がってすぐの頃に母親が身体の調子を崩し、療養のため引越をした田舎町の学校で菫は莉緒菜と同じクラスになった。その頃の彼女はどちらかといえば影の薄い存在で、髪型も肩の上くらいまでの波状毛だった。
彼女が菫に対して奇妙な行動を取り始めるようになったのは、母親が亡くなってしばらく経った頃だった。集団生活のリハビリだと父親から言われて嫌々学校に足を運んでいた菫を皆が遠巻きに接するなか、彼女だけは積極的に関わろうとした。
『今の藤咲さん、私はとっても好きよ』
執拗に後を付きまとうようになった彼女は、優しい言葉をかける傍らで同時に小さな嫌がらせを行うようになった。
初めはほんの些細な嘘や冗談だったものが徐々に過激さを増し、今では菫の反応を見て愉悦を覚えているようにすら感じられた。
莉緒菜は嫌がらせを行った後に必ず謝罪の言葉を寄こした。熱心に想いを語り、泣いて許しを請う。そんな彼女をどこか不気味に思う一方で、突き放すことがどうしてもできなかった。
菫はとうとう進学先の高校を誰にも話さなかったが、どこから情報を得たのか莉緒菜は彼女の後を追うように同じ学校に進学した。
『高校でも、仲良くしましょうね』
入学式の日、中学の頃のくせ毛が見違えるような姿に変わっていた彼女は偶然にも同じクラスであることが分かると菫の元へ駆け寄り、確かにそう言ったはずだった。
けれど翌日から彼女は、人前で全く話しかけて来なくなった。明るい性格で早々にクラスに溶け込んだ莉緒菜は集団の中から彼女を眺め、菫が一人きりになった頃合を見計らって声をかけた。
「あらあら。菫さんのペースに合わせていたら遅刻しちゃいそうだわ」
すでに遮断機の降りていた踏切を莉緒菜は一人で通り抜けると、「また放課後にでも、偶然会えると嬉しいわね」と言って消えていった。
置き去りにされた菫は、胸を押さえながら道路の脇に屈み込んだ。心臓の鼓動は発作的に激化し、呼吸が荒くなる。
いっそこのまま、家に引き返そうか。
ふらふらと立ち上がった菫はそのまま来た道を戻りかけたが、また学校を休むと父親に叱られてしまうと思い、再び前に向き直った。
彼女は目の前を猛スピードで通過する列車を眺めながら、今この中に飛び込めば現実世界から永久にさよならができるのではないかと考えていたが、それを実行に移すだけの勇気を持つことができなかった。
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