第5話

「おっはよ。碧!」


 碧が後ろを振り返ると、さっぱりとしたショートカットの髪に制服姿をした亜美が笑顔で手を振っていた。


 校則で男子生徒はネクタイ、女子生徒はリボンの着用が義務付けられているものの、彼女は性に合わないという理由でいつもキャメル色のブレザーにリボンを押し込んだまま生活していた。


「もうすぐテストだけど、調子はどう?」


「まぁまぁかな」


 ポケットから少しはみ出た赤いリボンに目を遣りながら碧が答えると、亜美は少し考え込むような表情を浮かべて「デジャビュ……」と呟いたが、ものの数秒でけろりとした表情に戻り、「碧さ、パンとか持ってない?」と言った。


「パン?」


「今日は二度寝しちゃって、朝ごはん食べられなかったんだよ」


「さすがに持ってないかな」


 苦笑いを浮かべて碧が答えると、亜美は残念そうにうな垂れた後、「目覚ましなんて、全然当てになんないよねぇ」と言って肩を竦めた。


「やっぱ一番効くのはお母さんだよ。マジでうっさいんだから」


「あぁ。そうなんだ」


 夢の去り際に聞いた荒々しいノックを思い出した碧は、神妙に頷いた。


「えっと、今日は校門で服装チェックがあるから、それは巻いといた方が良いんじゃない?」


 碧がポケットを指さしながらそう言うと、亜美は「うっそ!」と答えながら慌ててリボンを取り出し始めた。


「――それじゃ、碧。またお昼にね!」


 二年一組の教室前で手を振った亜美は、二つ隣にある三組の方へと消えていった。扉の前で教室を覗き込んだ碧は、クラスの面々をひと通り眺めた。


 まもなく六月を迎えるというのに、彼女は未だ新しいクラスに馴染めずにいた。一年生からの顔見知りもおらず、部活動に所属していない彼女は友人を作るきっかけをすっかり失っていた。


「何をこそこそ覗いてんだ?」


 背後から声をかけられた碧が肩を強張らせながら振り返ると、そこには彼女のもう一人の幼馴染である朝陽あさひが立っていた。


 不愛想な表情を浮かべる彼は、欠伸をしながら寝ぐせ混じりの頭を掻いている。


「亜美は?」


「もう自分の教室に行っちゃったよ」


 碧は彼の寝ぐせ姿に呆れた表情を浮かべつつ、「あんたたちって、なんで一緒に登校しないの?」と言った。


「なんでって、何でだよ?」


「だって、……付き合ってるくせに」


「別に付き合ってるからって、一緒に登下校しなきゃいけない決まりはないだろ。昼めしは一緒に食ってるし」


「それは付き合い始めるずーっと前からでしょ」


「そんなことより、碧は自分の心配をしろよな」


 面倒臭そうに目を逸らした朝陽は、そそくさと教室に入っていった。彼に続いて教室に入った碧は、誰に向けてというわけでもなく控えめな挨拶をしながら、いそいそと窓際にある自身の座席へ向かった。


 午前中の授業を終え、弁当箱を片手に碧が教室を出ると、一足先に廊下に出ていた朝陽は彼女の隣に並んで歩き始めた。


「亜美は食堂でパン買ってから来るって」


「お弁当忘れちゃったの?」


「どうせあいつのことだから、休み時間にでも食っちまったんだろ」


 朝陽は鼻で笑いながら、「今日は寝坊して朝めし食い逃したーって言ってたし」


「あぁ、そうだったね」


 無関心を装いつつ、朝陽は休み時間になるとわざわざ亜美のクラスまで出向いているようだった。そういうところは、昔から変わっていない。


 廊下を通り抜け、校舎に外付けされた非常階段の最上階で一緒に昼食を取るのが、高校に入ってすぐの頃に幼馴染三人で取り交わした約束だった。近頃は纏わりつくような暑さが続いており、碧としては別の候補地をさがすべきなのではないかと密かに思っていたが、二人はまだそれについて考えてはいないようだ。


「俺、明日は部活の集まりがあるから来れないかも」


「そうなんだ。テスト明けには大会だもんね」


 最上階の踊り場に腰かけた碧は、どこか居心地悪そうに弁当の包みを解いていた。二年に上がってすぐ幼馴染の二人が交際し始めたことを聞かされてからというもの、彼女は三人で過ごすことに疑問を覚えていた。


 自分は二人にとって邪魔者ではないのか。内心では二人きりで過ごしたいと思っているのに、我慢しているのでは?


 碧は胸の内で何度もそう思ったが、当の本人たちはそんな素振りを一切見せない。素直に打ち明けてくれたことは嬉しかったが、やはり現実問題として、これまでのように何をするにも三人一緒というのは難しいように思われた。


「食うの遅いんだから、碧は先に食べとけよ」


 手すりにもたれて携帯電話を弄りながらそう言うと、朝陽はもう片方の手にぶら下げていたビニール袋から紙パックのジュースを取り出して飲み始めた。


「でも、もう来ると思うし」


「ったく。あいつは人を待たせる天才だよな」


「聞こえてるんだけど」


 すぐ下の階から声が聞こえ、続けて階段の踊り場に顔を出した亜美は息を切らせながら残りをダッシュで駆け上がった。


「うぅ。ふくらはぎに来る!」


「女子バスケ部は軟弱だな」


「何よ、最弱男子サッカー部!」


 声を荒げて言い返した亜美は、彼に近寄りながら「この間の練習試合は何? あんな調子じゃ、今年も一回戦突破は難しそうね」


「去年は当たりが悪かっただけだ。今年はいいとこまで行くよ」


「さぁ、どうでしょうね。大口を叩くなら男子バスケ部くらい活躍してからにしてよ」


「地区大会優勝くらいで満足してる奴らとは、目指すところが違うから」


「へぇ。一回戦負けがよく言うよね」


「は? お前だって、去年は二回戦で――」


「はい、もうストップストップ」


 碧は彼らの間に割って入り、「二人ともレギュラーってだけですごいんだから。それで? 亜美はパン買えたの?」と話題を変えた。


「うん、ばっちり!」


 亜美は手に持った袋を自慢げに掲げると、「ごめんね、碧。待たせちゃって」と言いながら包みを破り始めた。


「俺も待たされたんだけど」


「あんたは早食いだからいいじゃない」


「そういう問題じゃないだろ」


 再び二人は睨み合ったが、袋からパンを取り出した亜美は思い出したように「そういえばさ、一年の間で噂の“柳美人”がうちのクラスでも話題になってたよ」と碧の方を見て言った。

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