碧 5月10日
第4話
暗い、濁った水中を泳ぎ進むと、見慣れた黄色い光が頭上から差し込んでいた。
身体を丸めて勢いを殺した
水面から顔を出し、息を吸い込んだ途端に碧は都会の喧騒を歩き進んでいた。髪はおろか、ずぶ濡れになった制服はすっかり乾き、リボンも元通り着用している。
彼女が夢を見る際は制服姿であることが多かった。これは中学に上がってから現れ始めた兆候で、小学生の頃はランドセル姿であることがほとんどだった。
学校にそれほど執着があるとも思えなかったが、恐らくそこには何かしらの願望が秘められているのだろう。
「亜美ってほんと、あっちではお洒落の話なんて全然しないくせに」
碧の周囲には、パリの街さながらに洒落た服装に身を包んだ者たちが溢れかえり、都会的な高層ビルやガラス張りのアパレルショップが建ち並んでいた。彼女の幼馴染である亜美の夢は、胸の内に秘める田舎暮らしからの脱却と芸能人への憧れが色濃く反映されていた。
その証拠に、夢の主である亜美は通りを歩けば通行人たちから羨望の眼差しを受け、あたかも著名人のような扱いを受けている。
実際の彼女が平凡な田舎町に暮らすただの女子高生に過ぎないことを知る碧は、見ていて時おり恥ずかしくなった。
「ハーイ、碧!」
コテで手を加えた長い髪に、顔の面積の半分はあろうかというサングラスをかけた亜美は、それを下にずらしながら碧に向かって手を振っていた。
「今日もお洒落してる?」
「まぁまぁかな」
亜美の言う“お洒落してる?”というのは、この世界における合言葉のようなもので、彼女なりに考えたご機嫌な挨拶なのだ。
街ゆく人々(ほとんどが少女漫画に登場しそうなすらりとした体型のものばかりだ)は皆一様に合言葉を交わし、立ち止まって互いのファッションを褒めちぎっている。
お洒落に対してさほど関心を持たない碧だが、彼女は好んでこの世界を訪れていた。この上なく自己愛に満ち、高い美意識をぶつけ合う者たちを眺めていると、何とも清々しい気分になれるものだ。
「今度、一緒にお買い物に行きましょうよ」
「うん。そうだね」
「どこ行く? 碧なら案外、ゴスロリとか着たら似合うんじゃ――」と亜美が言いかけたところで、遠雷が鳴り響いた。
街の上空はみるみる雲に覆われ、通りを歩く人々はどこから取り出したのか色とりどりの傘を揃って差し始めた。
「やば。そろそろ私も起きないと」
隙を見て路地裏に身を隠した碧は、半開きになった扉を発見してそこから屋内に入った。
廊下の突き当たりに化粧室の標識を見つけ、さらに扉を開く。
室内には誰もいなかった。
「……良かった。便器に飛び込むのはさすがに気持ち悪いし」
入口付近の洗面台の前に立った碧は、排水栓を塞いで蛇口をいっぱいまで捻った。雷鳴音はすぐ上空まで近づきつつある。
辺りはどんよりと薄暗く、今にも降り出しそうだ。周囲の様子を窺おうと奥へ移動した彼女が窓枠から顔を出した瞬間、化粧室の扉をノックする者があった。
初めは優しく、徐々にその音は激しさを増しながら、やがて蹴破らんばかりの勢いで扉を揺さぶり始めた。
その調子に合わせるようにして地面が揺れ始めると、碧は慌てて洗面台に向けて走りだした。
シンクの中にはすでに水が溜まりきっており、溢れ出たものが地面に滴り落ちている。
走る勢いをそのままに飛び上がった彼女は、指で鼻を塞ぎながら目を閉じ、水面に向かって飛び込んだ。
沈み込んだ先は、深い闇の中だった。
目を閉じたまま意識を集中した碧は、帰るべき場所を頭の中に思い描いた。しばらくして目を開くと、頭上から射し込む一筋の青い光が海底に向かって伸びている。彼女がそれを掴むと、光に導かれるように身体が浮上していった。
水面から顔を出した碧が大きく息を吸いこみながら髪をかきあげると、次の瞬間には寝室のベッドに横たわっていた。すぐさま枕の横に置かれた携帯電話を掴んだ彼女は、自身に向けてメッセージを送った。
――夢は見るもの。
送信して数秒待つと、受信箱にメッセージが届いた。中身を確認するとそこには一字一句送ったものと同じ内容が表示されている。
安心してため息を漏らした碧は、身体を伸ばしながら立ち上がった。暗がりの中、窓際に移動してカーテンを開くと鋭い陽光が室内に溢れかえった。
眩しさに目を細めつつ、額の上に手を翳した碧が外を眺めると、そこには彼女の暮らす田舎町の景色が広がっていた。
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