第3話

「あのキャンプ場は山の中だったし、もっと人で溢れかえっていたはずだ」


「夢が記憶をそのまま再現することは、あまりないと思います。いくつかの記憶が混ざり合うっていうか」


 彼女は片手に握りしめていた木の枝を焚き火の中に放り投げ、「こういう場所になったのも、あなたの願望かもしれませんね」と言った。


「なるほど」


 周囲に誰もいない環境は、航にとっては確かに必要な空間のように思われた。奇異な目にさらされながら生きている彼にとって、この時間は非常に貴重なものだ。


「君は夢について、よく知っているんだな」


 感心したように航が言うと、彼女は目を逸らしながら「私は何にも知らないです」と呟くように答えた。


「何にも分かってないんだって事を、ある程度知ってるくらいかも」


「ややこしい言い回しをするもんだ」


 夜空を覆っていた雲が通り過ぎ、月の光が再び周囲を照らし始めた。それを見上げた航は、これまで一度も見かけたことのなかった一筋の流れ星を偶然にも発見した。


 見逃していただけなのか、それとも夢が僅かに変化したのか。何度も同じ光景を繰り返していたはずのこの世界が、航の中で進み始める予感がした。


「なんだか、余計なことを言っちゃいましたね」


 身体をふらつかせた彼女は立っているのに耐えきれなくなったのか、母親の席に腰を下ろした。「なんか身体が熱い……」


「それは酔いが回ってるからさ」


 ビール以外にも彼女に提供できる飲み物はないかと航はクーラーボックスをに手を突っ込んだが、いくら掻き回しても顔を見せるのはビールの缶ばかり。これもまた自身の根底に眠る欲求が生み出したものかと思うと、彼は呆れるばかりだった。


「酔っ払うって、こういう気分なんだ。何か楽しい」


 くすくす笑いながら背もたれにだらしなく体重を預けた彼女は、首元に巻かれたリボンを緩めながら「ここって、私にとってもお気に入りの場所なんです」と言った。


「静かだし、景色は良いし。あなたはお人形みたいにずっと黙ったままだし。だから、気兼ねなく過ごせたっていうか」


「見ず知らずの人の前で、ずいぶんと気ままに過ごしてくれたもんだよ」


「それはだって、全部忘れちゃうと思ってたし」


 赤いリボンを手のなかで弄んだ彼女は、恥ずかしそうに航を見遣ると「でも、あなたが覚えてる人でちょっと嬉しいかも」と言った。


「私、普段は結構人見知りするタイプなんですけど、あなたは話しやすいです」


「それは良かった」


 追加でビールを取り出した航は、プルタブを開けてそれを一口飲んだ。


「もう、飲み過ぎ!」


 叱りつけるように航を睨みつけた彼女は、次いでご機嫌な笑みを浮かべ、「ねぇ、良いこと教えてあげよっか?」と言った。


「良いこと?」


 彼女は赤いリボンをキャメル色のブレザーのポケットにしまうと、気怠そうに上体を起こした。


「あなたは私のこと、単なる夢の中の登場人物だと思ってるでしょ?」


「そうじゃないのか?」


「ぶー。違うよ」


 顔の前で両手を交差させた彼女は、「そもそもあなたは私にとって全然関係のない人なのに、どうして私はここに来られたんだろ」と呟いた。


「言ってる意味がよく分からないな」


 気づけばクーラーボックスが僅かに揺れていた。よく見ると今しがたビールを取り出した水面が、円を描くように奇妙な波紋を描き始めている。


「ここがあなたの夢の中だってことは、認識してる?」


「まぁね。にわかには信じがたいけど、不思議とそれは確信に満ちているよ」


「私にもがあって、私の現実があるってことだよ」


 彼女の言葉に押し黙った航は、顎に手を当てて考え込んだ。足元に多少の揺れを感じたが、まさか缶ビール二本でもう酔っ払ったか?


「それはつまり、僕と君は全く同じ夢を見ているということかな?」


「ぶー。近いけど、ちょっと違う」と彼女は答えた。


 やはり地面は揺れていた。それも徐々に激しさを増している。前方の海を眺めた彼女は、興奮したように声を漏らしながらそちらを指さした。


「おぉ、すごいね」


 彼女の視線の先を目で追った航は、ありえない自然現象を目撃した。遥か向こうの海面ではいつしか津波が発生し、とてつもない速度で距離を詰めている。初めは些細な波のように思われたが、近づくにつれてそれが夜空を覆うほどの高さに立ちのぼるものだと分かると、彼は途端に身体が震えだした。


 恐ろしいほどの轟音を響かせる津波は星を食らい、月を食らい、彼のいる島全体に食らいつこうとしていた。


 立ち上がった航は椅子の横に倒していた杖を手に取ると、それをつきながら海の方へと歩き進んだ。


「足、悪いの?」


 背後から聞こえる彼女の声は、どこか不安げだった。


「まぁね。高校生の頃に事故に遭って以来、ずっとこの状態さ」


「……そうなんだ」


 同情するような視線を背中に受けながら、航は目の前に広がる津波を呆然と見上げていた。夢の中で津波に遭えば、果たしてどうなってしまうのか。こんなことは今まで一度もなかったのに。


「これは君が起こしたことなのか?」


 航が振り返ると、先ほどまで隣の席に腰かけていたはずの彼女は姿を消していた。取り残された二脚のアウトドアチェアのそばでは、クーラーボックスが荒々しく揺れている。


 海面から普段よりもいっそう強烈な突風が巻き起こると、焚き火の炎が消えて辺りが暗闇に包まれた。


 思わず肩を強張らせた航は、前に向き直った。その瞬間、腹の底まで響く轟音と水圧の塊が目前まで迫って来るのが肌で感じられた。

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