第2話

「どうせ、忘れちゃうと思ってたから……」


 怯えたように答える彼女を見た航は、少々高圧的な態度に映ってしまったかと反省しつつ、思春期特有の素直な反応に思わず笑みを溢した。


「私、何かおかしなこと言いましたか?」


 顔を上げた彼女は、戸惑いながら頬を真っ赤に染め上げている。


「いやいや、そうじゃなくてね」


 航は片手を振りながら一度咳払いし、「実を言うと、別に誰かが来る予定はないんだ」とあっさりした調子で答えた。


「え?」


 赤らんだ頬のまま、彼女の表情はみるみる歪み始めていく。


「だって、先約があるって言ったじゃないですか! 私のことからかったんですね!」


「そんなに怒ることないだろ」


 航は責めるように言い立てる彼女の瞳を見つめながら、苦笑いを浮かべた。


「そもそも人の物を勝手に使ったことに変わりはないんだから、君は反省すべき立場ではないのか?」


「それは……。そうですけど」


 どこか納得のいかない表情を浮かべた彼女は地面の砂を革靴の先で擦り、「何と言うか、やり方が卑怯です」と小声で漏らした。


「お、意外と好戦的な奴だな」


 妹との口喧嘩にも似た空気を感じ取った航は、右側に置かれたクーラーボックスから缶ビールを二本取り出した。


「まぁ、一杯飲んで落ち着けよ」


「見れば分かると思いますけど、未成年ですよ?」


 彼女はおよそ軽蔑の眼差しを向けていたが、航はそれもまた愉快な気分で眺めながら、「どうせ夢の中だろ」と返した。


 しぶしぶ缶ビールを受け取った彼女は、それを両手で握りしめて前に向き直った。航もつられて海を見ると、二匹の魚が水面を飛び跳ねていた。


 まもなく雲が広がり始める頃合かと、彼は焚き火に薪を追加する。


 炎の勢いが増すのを確認してから隣を見遣ると、彼女は未だ缶を握りしめたまま突っ立っていた。


「もしかして、開け方が分からないとか?」


「そんなこと! ある訳ないじゃないですか」


 まんまと航に乗せられてプルタブに指をかけた彼女は、勢いよくビールを飲み始めた。


「うぇ。苦い」


「子供にはまだ早いかな」


 舌を出して苦みを表現する彼女の姿を眺めた航は、缶ビールを喉の奥に流し込んだ。


「ふぅ。……最高」


「何が美味しいのか、私には全然分からないんですけど」


 彼女は地面にしゃがみこむと、続けて豪快にビールを流し込んだ。


「大人になるにつれ、味覚の敏感さは徐々に失われていくって言いますしね」


「そんなに歳でもないんだけどな」


 航は落ちた枝を拾って地面に落書きを始める彼女を眺めながら、「別に座ってもいいんだよ?」と隣の席を指さして言った。


 彼女は一瞬だけそちらを見遣ったものの、意地を張ったように首を振り、「良いです、別に。私は若いですから」と答えた。


 分厚い暗雲が月を覆い隠した。辺りは極端に見通しが悪くなり、数メートル先にはすぐ闇が囲っている。


 ビールを一息に飲み干した航は、もう一本取り出すとそれを火照った首筋に当て、「君ぐらいの年頃に一体何をしていたのか、僕にはまるで思い出せないな」と言った。


「もっとずっと子供の頃のことなら、明確に覚えているのにね。両親がよくキャンプに連れて行ってくれたんだ。今思えば、単に親父が行きたかっただけなんだろうけど、それも母親が亡くなって以降はすっかりなくなっちゃったな。だからなのか、妹のやつは昔からインドア派で家から出たがらないんだよ」


「お母さん、……亡くなったんですか」


 前を向いたまま静かに尋ねる彼女の横顔を見ながら、航は二本目の缶ビールを開けた。


「もう随分と昔の話だよ」


 頬の辺りが妙に熱っぽいように感じられた彼は一口で半分ほどそれを流し込むと、「夢の中でなら、ひょっとして会えたりするのかもって初めは期待したけど、案外現れないもんだな」と言った。


 空席を眺める彼の物寂しい声を聞いた彼女は、缶ビールを何とか飲み切ると地面の落書きを荒々しく消しながら、「死人は夢を見ないですから」と答えた。


「でも夢を見ているのは僕なんだから、死人が現れる可能性だってあるだろ?」


「なくはないですけど、夢はそれほど都合のいいものではないんです」


 立ち上がった彼女はスカートについた砂を払い、「夢の世界って、自分のコンプレックスを解消してくれる場所って感じに私は捉えてるんです」と言って彼の方を振り返った。


「だからといって、望みを全て叶えてくれるわけじゃないし、好き勝手に世界を作り変えることもできない」


「そんなものかな」


 反射的に自身の左膝に手を触れた航は、二本目を飲み切ると彼女の分も含めて空き缶をゴミ袋に放り込んだ。


 たとえ夢の中とはいえ、マナー違反は犯したくない。未成年に軽々しく飲酒を勧めておきながら、自身の性分は拭いきれないものか。


「それに普通はどんな夢を見ても、起きたらすぐに忘れちゃうはずなんです」


 彼女の両耳は真っ赤に染まっていた。焚き火の揺らめきの中で彼を見つめるその瞳は、まるで問い詰めるような眼差しだった。


「少しくらいは覚えてる事もあるだろ」


 すると彼女はむっとした表情を浮かべ、「それでも、夢で体験したことを次の夢でも覚えてる人なんて滅多にいないもん」と返した。


「まぁ、それもそうか」


 それを言うなら、目の前にいる君も同じではないかと航は内心で思いつつ、「そういえば、僕の記憶ではこんな場所を訪れたこともなかったな」と言った。

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