深海を蝕む糸

扇谷 純

第一部

航 5月10日

第1話

 その場所を知覚したとき、葉瀬川わたるは安らぎを感じていた。


 そこかしこで聞こえる鈴虫の鳴き声。焚き火の爆ぜる音。風に乗って漂う潮の香り。


 周囲に人の気配はなく、都会の喧騒から解き放たれてまさしく楽園に降り立ったのだと実感した彼は、ゆっくりと目を開いた。


 アウトドアチェアに深く腰かけた視線の先には満点の星空が瞬き、月の光が波打つ水面に照り返していた。


 左斜め前では焚き火の炎が揺れ、それを間に挟むような形で隣に色違いのアウトドアチェアが置かれている。


 空席を愛おしそうに眺める彼は、焚き火の世話をしながら過去を思い返した。


 幼少期に家族揃って訪れたキャンプ場。妹を胸に抱き、見守るようにして椅子に腰かけた母親の姿が今も脳裏に焼き付いている。


 キャンプは父親がすべて取り仕切っていたので、その頃の航が獲得した野営の知識は川で西瓜すいかを冷やす方法と、蚊取り線香の効果的な配置くらいのものだった。


 そんな自分が焚き火の世話をしている姿に初めのうち困惑したものだが、繰り返しする間に違和感も薄れていった。


 海辺で星を眺める夢は、もう何度となく経験している。近頃ではこの夢を見るか、はたまた夢を見ないかの二択だ。


 彼の人生を決定づけたあの日を境に見始めたこの夢は、毎度同じ時間を繰り返していた。初めは晴々とした夜空だが、やがて分厚い雲に覆われると月の光が遮断され、景色は急速に暗くなっていく。その間は焚き火が唯一の光源となり、炎の猛々しさに航は毎度釘付けになった。


 月が再び雲間から顔を覗かせ、闇と海の存在が見分けられるようになった頃、こちらを煽るような突風が海面を渡ってやって来る。


 一連の流れに身を任せる彼は、椅子に座ったままその光景をただ眺めていた。


「……あったかい」


 声が聞こえて視線を遣ると、突如として現れた彼女は航の隣にある赤いアウトドアチェアに腰を下ろした。


 現実の世界では見覚えのない顔、見かけたこともない学生服姿だが、彼女はもはや夢の世界においての同居人とも呼べるほど頻繁に出くわしている。


 静かに夜空を見上げる彼女は、航のことを意識の外に置いているようだった。話しかける素振りも見せず、時には彼に代わって薪をくべ、水浴びをし、貝殻を拾い、一人遊びに没頭していた。


 彼女は神出鬼没な存在だった。


 ひと月ほど前から姿を見せるようになった彼女は、決まりきった時間を繰り返すこの世界において唯一その法則に囚われていない。時間帯や日取りにもばらつきがあり、必ずしも出現するとは限らなかった。


 一体何者なのかと疑問を抱く一方で、やはり夢の中に存在する手の込んだシステムの一部に過ぎないのではないかと航は思っていた。


 十七歳の頃からずっと一人でこの世界を見てきただけに、初めて彼女が現れた日は正直彼も驚かされた。今夜のように突然目の前に立った彼女は、どこか困惑した表情を浮かべていた。


 ぶつぶつと独り言を呟きながら周囲を見回していた彼女はしばらくして振り返ると、「朝陽を見ましたか?」と航に尋ねた。


「いいや。見ていないね」と、彼は返した。


 航はこの世界で、一度も太陽の光を拝んだことがない。


 彼の返答にまたしばらくの間黙り込んだ彼女は、続けて思いついたように「あなた一人ですか?」と言った。


「悪いかな?」


「……いえ。そんなことは」


 どこか緊張したように表情を強張らせた彼女は、うつむき加減に応えるとそれきり黙り込んだ。


 その後も彼の前に姿を見せ続けているが、会話と呼べるものはそれきりだった。


 回を重ねるごとに、彼女の一人遊びには遠慮がなくなっていった。夢の住人がどのように過ごそうと航の知ったことではなかったが、こう何度も思い出の品に勝手をされるのはどうかと思いこの日はとうとう口を開いた。


「そこ、実は先約があるんだ」


 突然の指摘に彼女は慌てて椅子から立ち上がると、「ごめんなさい!」と頭を下げた。


 思いのほか従順な態度に少しばかり戸惑いつつ航が様子を伺っていると、椅子の真横に佇んで夜空を眺めていた彼女は、しばらくしてまた椅子に腰かけた。


「だから、どうして座るかな」


「だって、……誰も来ないし」


 そう言って航の方を見た彼女は、「来たらどきますから」と苦笑いを浮かべた。


 彼女の振る舞いに思わずため息を漏らした航は、「あのね君、何の断りもなく人のものを使うのは失礼ってもんだろ」と言った。


「まぁ来てるわけだから、誰も来ないことくらいとっくに知ってるだろうけどさ」


「何度も……」


 素早く椅子の中で身体をひねった彼女は、「私のこと覚えてるんですか?」と前のめりになって尋ねた。


「まぁ見ての通り、君以外にここへ来る人もいないしね」


「そうじゃなくて」


 彼女は困惑した様子で頭を振り、「今までに私がここへやって来た記憶が、あなたにはあるんですか?」


「あれだけ自由に振舞われたら、そりゃ印象にも残るよ」


「うそ……」


 背もたれに身体を埋め、恥ずかしそうに顔を隠した彼女はしばらく経って航を見遣り、「ここがどこか、分かってます?」と言った。「あなたは一体……」


「どこって、夢の中だろ」


 お化けでも見たように青ざめた表情を浮かべる彼女を見つめ返した航は、「そういう君こそ、一体何なんだろうね?」


「私は、その……」


 彼の質問に言い淀んだ彼女は、立ち上がって腰かけていた椅子を改めて眺めると、「あの、誰を待ってるんですか?」と気づいたように尋ねた。


 すっかり時機を逸したその台詞にちょっとばかり不愉快な気持ちが芽生えた航は、「どうして今さら、そんな質問をするのかな」と冷たく返した。


「これまでは一切こちらに興味を示してこなかったじゃないか」


「だってそれは――」と彼女はすぐさま答えかけたが、突然うな垂れるとスカートの裾をぎゅっと握りしめた。

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