第48話 わたしだけのヒーロー
「急いで帰らないと…」
わたし――芹野綺夏は夜、コンビニからの帰り道を急いでいた。
時刻はもう23時を周ろうとしている。
何故、そんな事になったかと言うと、仕事が終わった後、学校で明日中に提出しないといけない宿題があってそれをやっていたのだけど、最後の一問というタイミングで使っていたシャーペンの芯が切れたのだった。
ボールペンとかでも良いかなとも思ったんだけど、あの先生は鉛筆かシャーペンじゃないと提出しても認めないっていう人だしな…。別に書けたら何でもいいと思うのだけど。
ちなみに提出する為に途中、仕事を抜けて学校に行く手筈に洋子さんにはしてもらっている。
タイミングは悪いものでそういう時に限って、その切れた芯が最後の一本、しかもうちにはもう新しい芯も鉛筆も無いという。
なので、わたしは仕方なく一番近いコンビニに芯を買いに来たという訳。
すぐに行って帰るつもりだったし、誰も気付かないだろうと思い、ポニーテールを降ろしただけ、かつすっぴん姿にしていた。課題が終わったらすぐ寝るつもりだったから格好もラフなTシャツでノーブラに下はスウェットパンツだ。
それがいけなかった。
途中、後ろに人の気配を感じた。
最初はたまたまだと思った。ここは住宅街。近所の人が自分の家に帰るタイミングと合ったんだろう。そういう事自体は以前もあったし不思議じゃない。
ただ今回は違う。何故なら歩幅が全く同じだからだ。少し歩く速度を速めたら相手も同じ様に速める。少しゆっくり歩く様にしたら相手もまた同じ様にしてゆっくり歩く。
後を尾けられている…!
誰?マスコミ?それともストーカー?
わたしの中に不安と恐怖と緊張が走る。今までプライベートでも顔を隠す様な真似はしてこなかった。誰もわたしがアイドルの芹野綺夏だと気付かないし、世間とは案外そういうものだと思っていた。だから今日もその感覚でいたのだけど、それが仇になったのかもしれない。
でも今のわたしは特にお忍びデートとかスキャンダルになる様な要素は無い。ただ必要な品を一人で近所のコンビニに買いに来た、それだけ。コンビニの店員の人もわたしに気付いている様子は無さそうだったし。スキャンダルをでっち上げようにもでっち上げる事はわたし達の後ろ盾を考えてもそう簡単にはできないはず…。
…っ!
相手が距離を詰めてきた。相手の生暖かい息が首元にかかる。凄く気持ち悪い…。
この場には今、わたしと後ろの相手しかいない。しかも、周りは住宅街だが、不幸にもここは売家が並ぶ一角。大声を出してもすぐには気付かれない状態だ。
相手は本気でわたしを狙っている。
わたしは勇気を出して振り返った。
「ハァハァ…。やっぱりアヤカ姫だぁ~。ボキに気付いてくれたんだね。やっと君の所へ帰って来れたよ~。ブキキ」
「……ひっ!?」
最悪な相手だった。
こいつはわたしの狂信的かつ妄執的なファンの男。デビュー当時からわたしを推す余り異常としか思えない行動ばかり繰り返し、イベントやライブでも悪質な行為をやらかし続け事務所から再三警告を受けても全て無視してわたしをストーキングしようとした厄介極まりない最低な男。
最終的に警察沙汰となり、その時は初犯で執行猶予が付いたが、事務所が「ディーヴァ」に関わる全てのイベントやライブ等全て出禁かつ公式SNSや公式ユーチューブチャンネルはそいつのアカウントを全てブロックし、二度とわたしに近寄らない誓約書まで書かせて何とか決着させた。
でもこいつには無駄だった。この男には常識というものが通じない。現に誓約書も無視してこうやって今わたしの前に現れている。
「ど、どうしてここに…」
「ブキキキキキ。そんなの簡単だよぉ~。ボキ達は愛し合っているんだ。愛の力の前にはどんな邪魔者も無力なのさぁ~」
何を言っているの…?わたしはこんな奴の事なんか愛してなんかいない。こいつが一方的に自分に都合よくそう思い込んでいるだけだ。
怖い…!こいつが怖い…!今すぐにでも逃げ出したい。幸い家は近い。走って逃げたら大丈夫かもしれない。
でもそれは逆に言うとこいつにわたしの家を知られてしまうという事。
こんな奴に家バレすればもう今までの様な生活は送れないだろう。どこか隠れる様にこの男から逃げ続けなければならなくなる。そうなると連ちゃんとも会えなくなる。
そんなの嫌だ…っ!こんな奴の為にわたしの幸せを破壊されたくない…!
助けて連ちゃん…!
わたしは恐怖と混乱でその場に立ち尽くすしかできなかった。自然と目から涙が零れる。
それが奴にはわたしが自分を受け入れていると勘違いさせた。
「アヤカ姫、さぁボキと一つになろうかぁ~ブキキ」
「嫌っ!止めて…っ!」
薄ら笑いを浮かべ男がなおわたしに近づいて来る。
わたしはとにかく逃げ出したかったが、今下手に動くとこいつはどうなるか分からない、確実にまともな反応をしてくれない。
それに足をすくんでしまい動くに動けない。
「ひっ…!」
わたしの両胸があいつの薄汚い両手で鷲掴みにされた。
「これが夢にまで見たアヤカ姫のおっぱい…!何て障り心地なんだ…!ブキキ!大きさも張りも申し分無し!しかもこの感触、ノーブラ!正に男に揉まれる為に産まれてきた最高のおっぱいだよぉ!アヤカ姫ぇ~!!」
ただ苦痛しか感じない一方的な男だけが満足する掴み方。
わたしの事を性欲の捌け口としてしか見ていない態度。
ふと目を下にすると男の股間は張り裂けんばかりに怒張していた。今にもズボンから飛び出さんとする勢いだ。
このままだとわたし犯される…!?こんな最低な奴に純潔に奪われてしまう…!
わたしの中をただ恐怖だけが支配していた。嫌だ。こんな奴とヤるなんて…!わたしの初めては連ちゃんに捧げるって決めているのに…!
だが、わたしはこの男に胸を掴まれた事で完全に動きを封じられてしまった。
そして、男は更なる動きに出た。
「う~ん、でもアヤカ姫のおっぱいもっと触り心地が良いはずなんだけどなぁ~。あ、そうか!これが邪魔なんだ!えい!」
「え?キャアァァァァッ!?」
着ていたTシャツが引き裂かれた。
わたしの上半身が男の前で露わになった。
やめて!見ないで!これ以上わたしを辱めないで!思わず胸を腕で覆うとした。
だが、その瞬間を見逃さなかった男は自分の両手でわたしの両手首を掴んだ。
わたしは自分の水沙程では無いが大きな胸を晒す形になってしまった。
「アヤカ姫の生おっぱい!ブキ~ッ!!服の上から見ていた以上の迫力!しかも乳首も乳輪もちゃんと綺麗なピンク!これは使い込まれていない証!ブキキ!今ボキが直に味わってあげるからねぇ~」
男の顔がわたしの胸に迫る。
うっ…!臭い…!
近づいた事で男の臭い息がわたしの鼻腔を更に擽る。余りの悪臭に吐き気を催す。
こんな臭い匂い嗅いだ事が無い…。本当に気持ち悪い…。しかも、そんな悪臭極まりない口膣がわたしの右乳首を覆う。イヤ、気持ち悪い、無理…!
このままだとわたし…!
連ちゃん…っ!!
その時だった。
「やぁやぁやぁ~!祭りだぁ!祭りだぁ!!袖振り合うも他生の縁。躓く石も縁の端くれ。共に踊れば繋がる縁。この世は楽園!!悩みなんざ吹っ飛ばせぇっ!!笑え!笑え!はぁ~はっはっはっはっ!!」
「ブキ?何だぁ?」
「え…?」
場にそぐわない余りにも能天気な声が男の背中から聞こえる。
男は怪訝そうにそちらを振り向く。
そこには今、わたしが一番求めている人がいた。
連ちゃん……っ!!
わたしはその隙を突いて男の手を振り払い、胸を隠して連ちゃんの所へ駆け寄った。
でも何でポーズとってるの?
「連ちゃん!」
「さぁ楽しもうぜ!!勝負勝負!!ってアヤ!?どうしたんだ、こんな所で…。それにそんな格好でうろつくなんて…。何かあったのか?」
連ちゃんがわたしを見る。良かった…。安心してまた涙が零れる。この涙は愛しい人が来てくれた安堵の涙。
「ブキ~ッ!!何だお前!?ボキとアヤカ姫の仲を裂きに来たのか~っ!?」
男が声を荒げる。いけない。この男を怒らせるとどうなるか分からない。
こんな奴の為に連ちゃんを巻き込みたくない!
だけど、連ちゃんはわたしをそっと制止した。どうするつもりなんだろう?
「アヤカ姫って言ってる事は…、「ディーヴァ」のファンか。でも、アヤを見る限りアイドルとファンの良き関係って感じじゃ無さそうか…」
「何だとぉ~!ボキとアヤカ姫は恋人同士なんだ!愛し合ってるんだ!将来を誓い合った仲なんだぞぉ~っ!!」
あの男が何を言っているのかわたしにはさっぱり分からなかった。
恋人同士?愛し合ってる?将来を誓い合った仲?そんなの全部嘘。全部あいつの狂った妄想。
「そもそもアヤって何だ!!アヤカ姫こいつ何なんだ!?まさかボキに隠れて浮気してたのかぁ~!!」
ありもしない妄想を捲し立てる。連ちゃん、信じないで…!全部あいつの妄想だから。異常な嘘だから…!
「恋人?浮気?アヤ、一体何の事?あの人と何かあったの?」
男の言っている事が連ちゃんも把握し切れていない様でわたしの方を向く。
思わず、わたしは首を横に振った。この男の事は連ちゃんには伝えていなかった。
だって伝えて変な心配をさせたくなかったから。それに下手に巻き込んであいつの暴走で連ちゃんを傷つけたくなかったから。
男は実際、今怒り狂っている。このままだとマズい。連ちゃんが殺されるかもしれない…!
恐怖で顔が青ざめる。
「アヤの顔見りゃ分かるな。なぁアヤに何かしたのか?」
「したのはお前だろ!もう良い!お前を殺してやるぅ~!アヤカ姫はボキのものだぁ~っ!!」
連ちゃんに男が襲い掛かる。やめて!連ちゃん逃げて!
だけど、連ちゃんは軽やかに体の重心をズラす事で男の突進を避けていた。
男が前のめりになって転ぶ。
「まさか、すかしがこんな所で役に立つなんて。あんた、アヤに何かしたならさっさと謝って帰りな」
「クゥ~!貴様ぁ~!ボキとアヤカ姫の愛を邪魔する糞虫めぇ~!絶対に殺してやるぅ~!!」
地面に打ったのか顔を赤くした男は憎悪の籠った目で連ちゃんを捕らえ殴りかかろうとした。危ない…っ!
だけど連ちゃんはその動きをかわし逆に腕を固めて動きを止めた。
男が連ちゃんに完全に固められ動くに動けなくなっていた。
「イデデ…!離せ!離せ!糞虫がぁ~!!」
「糞虫って俺の事か?意味はよく分からんが、むしろあんたがアヤに何かしたって事は分かる。とりあえずあんたとアヤは超良縁じゃ無いって事だ。むしろ悪縁。悪縁は断ち切るに限る…!」
連ちゃんが力を強める。
「イデデデデ!イダイ!!イダイ!!」
「とりあえずアヤ、警察に電話。それまで俺が押さえとくから。後、俺のバッグにTシャツ入ってるから着ろ。流石に上半身裸はマズいだろ」
「う、うん!」
わたしは連ちゃんに言われるまま警察とそれに洋子さんに電話をかけた。
幸いどちらもすぐ来てくれる様だった。
そして、連ちゃんのバッグに入っているTシャツを借りて着る。特撮ヒーローが2人プリントされているものだ。わたしはイマイチよく分からないが、何も着ていないよりマシだろう。
そしてその後、やって来た警察に男は連行された。連ちゃんは正当防衛としてお咎めなしだった。
洋子さんから今日の件は事務所が内密に処理する事、男には誓約書を破った事でそれ相応の報復がある事を告げられ、そして不用意に夜出歩くなと怒られた。
でもその後、「あなたが無事で本当に良かった…。もう二度とこんな目には遭わせないから…。私があなた達3人を守ってあげるから…」と優しく抱きしめられた。
その洋子さんの優しさがわたし達を本当に心から思ってくれている事がわたしの心に響いた。
そして全てが終わり、わたしの家の前。気が付けば日付が変わっていた。
丁度、連ちゃんはアクションチームの練習日で先輩達と色々自主練習や駄弁ってから銭湯に寄った後で帰ってくる所でたまたまわたしとあの男の場面に遭遇した様だった。
わたしは奇跡に感謝した。もし、連ちゃんの練習日で無かったら、もし少しでも時間がずれていたらわたしはもう二度と連ちゃんに顔向けできる体で無くなっていたかもしれない。いや下手をすれば永遠に連ちゃんに会う事ができなかったかもしれない。
本当に連ちゃんはわたしに何か合った時には必ず来てくれる。必ず助けてくれるわたしの、わたしだけのヒーロー。
「じゃあアヤ、俺もう帰るから。今日の事は忘れな。俺にはそれしか言えない」
「あっ、待って…!」
行かないで…!
自分の家に帰ろうとする連ちゃんをわたしは思わず背中から抱きしめた。
「アヤ…?」
連ちゃんの声が驚いた事になっている。当然そうだろう、急にわたしが抱き着いてきたのだから。
「今夜はずっとわたしの傍に居て…。わたしを守って…。わたしだけの連ちゃんでいて…」
消え入りそうな小さい声でわたしは連ちゃんに懇願した。
今夜はずっと2人でいたい。連ちゃんの優しさで、温もりであの男を忘れさせてほしいから…。
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