第29話 交通安全週間に思うこと
道路に面した空間に「○○町XX会」などという名を記した白い帆布のテントが立ち始めると、「ああ、また交通安全週間の季節になったんだ」と感じる。俳句の季語にしてもよさそうな年中行事であるが、最近はどうもマンネリだという思いが
こうしたイベントが決まった期間にあるというのは準備しやすいというメリットもあるのだろう。交通安全についての
従って、「全く意味がない」とまで切り捨てるつもりもないが、交通警官が信号機のある交差点で笛を吹き(意味、あります?)、町内会の係のおじさんやおばさんが交通安全週間と書いたテントの下で暇そうに通りを眺めている(お茶を飲む以外意味、あります?)、という風景を見るにつけ、もう少し効果のある方向に資金と資源を使う事を考えれば良いのにと痛切に思う。毎年毎年飽きもせずに同じ事を繰り返しているのは楽なのだろうが、精神の怠惰という
様はいらんか・・・。
それでも安全な社会でぼーっとしていても構わない、なら理解もしよう。しかしながら自転車の事故は増え続けているが有効な対策はなく、相も変わらず頭のネジの緩い連中が赤信号を無視して走り抜ける、道路を斜めに渡っている、歩道を我が物顔に減速もせずに走っている。その上、その連中の一部に「電動キックボード」などという下らない乗り物を与えて事故を増やそうとしているお馬鹿さんたちもいる。(ちなみに個人的にはそうした乗り物を完全に否定している訳ではなく、東京ならお台場や有明などに限定して使う分には良いと思っている。そもそもあんな不完全な乗り物カリフォルニアとかみたいな広い開放的な空間ならともかく狭い道や坂道で使うものではないよ。事故が頻発する前に早く廃止すべきである)
自動車に目を向ければ、あおり運転は増え続け、常識では考えられないほどの異常な行動を路上で行う輩が続々とテレビに映し出されるのは、ドライブレコーダーが普及しているからだけではあるまい。
交通という風景には社会の基本的な考え方と、質というものが顕著に現れる。ドイツにいたとき、車でスピード違反をしたときに(日本でいう)オービスに引っかかったなら確実に「請求書」が送られてきた。イギリスでは横断歩道のところにぼんぼりのような灯りがついていて、車に注意を促している。横断歩道(或いは信号無視)で交通事故を起こせば何があろうと車の責任であるが、それ以外のところではそうではない。毅然とした差があり、なんでもかんでも車の責任というわけではない。アメリカの右折ルールは有名であるが、スペースに余裕があるからとは言え、合理的である。日本の交通システムそのものはそうした国々にひけを取らないと思っているが、上記の自転車・自動車の摘発の緩さのみならず運用面ではいくつか苦言を呈したくなる点がある。
1つは横断歩道である。横断歩道における優先はどの国でも歩行者側にあるが、先進国においてもっともそれが
横断歩道で停止しない車は軒並み検挙して構わない、とこの間新潟ナンバーの車に危うく轢かれ掛かったときに強く思った。あいつら、隙あれば突っ込もうと考えているし、その時。車対人という感覚さえ失っているように思えてならない。
だが、世間ではこの解決の方法として別の方法が提案されている。これは長野県で
なぜなら、この方法は「法の在り方に関わらず、本来譲るべき車と優先権のある歩行者を(仮ではあるが)一旦、同一のポジションに置き直し、譲ってくれた車にお礼をする」ということによって、車の運転手側に「譲って貰った歩行者側がお礼をするのが当然」という誤解を与える余地が存在するからである。「何を面倒な」という人もいるだろうが、この緩い、突き詰めない考え方が日本という国をもしかしたら駄目にしているのではないか、と僕は時折、真剣に考える。
というのも、そこになんとなく「長いものに巻かれよう、強いものに媚びようとする」思考を感じ取ってしまうからである。僕は譲って貰っても決してお辞儀はしない。その代わり、自分のできうる限り「速やかに」横断をすることを心がけている。それが互いにとっての「法の遵守」であり、歩行者側の自動車側に対するマナーを充たす唯一の方法である筈だ。まあ、この方法だと地方からきた「法規を知らない」運転手に先ほどのように轢かれてしまう危険を伴ってはいるのだが、それを恐れる余り常に譲っていたら、法規なんて「自ら破る加担」をしている共犯者になってしまうのである。
一方で「横断歩道以外を渡る歩行者」に関して取り締まる道路交通法の緩さも問題である。道路交通法の第12条/13条のように限定をする必要はないのではないかと思うし、科料が2万円というのも
2つめはもっと「どうでもいいといえばいい」話なのであるが、未だに「信号が変わった時に、どちらも赤の状態」というくだらないシステムを維持しているのは何故か、という問題である。
いや、導入時にもしかしたら、効果があったのかもしれません。車が止まり、暫くしてから歩行者側の信号が青になる、その「間」に意味があった瞬間もあるのだろう。だが、人間行動学を少しでも習った人間にはそんな「習慣」はたちまちに意味を失ってしまうことは自明の理である。「綺麗に使っていただいてありがとうございます」というトイレの貼り紙や、小便禁止の鳥居の貼り紙が効果を失うように、人間には「実に下らない学習」をする能力(下らないことほど学習する能力)が備わっているのである。
つまり、時を経た「どちらも赤」の信号は「どちらも緑」の信号と同じく、「無法地帯」を自然と作り出してしまうのである。
聞こう。「どちらも赤の時に起きた事故は誰の責任なのだ?その根拠は何なのだ?」
世の中の法というのは「基準が曖昧」であるほど守られないものであるのに、法を作る側は意図的に「裁量の余地」を残そうとする傾向がある。その下心は「裁量の余地」があるほど「自分の権威」を押し出すことが可能になるからである。正直言って、そんな事を考えている人間はろくなものではないが、現実的には「行動基準の1つ」であるのが実態である。その1番「どうでもいい話」がこの「魔の赤信号だらけ状態」に現出しているのであり、どうでもいい話は「割れ窓理論」の一部を構成しつつ、全てに渡る行動と思考の劣化を招いている可能性があるのだ。
というわけで、交通安全週間などはそろそろやめて、「交通に関する知恵」を世間に求めてもう少しまともな運用(ソフトウェア)を作り出す仕組みに動いていった方が良いのではないかと強く思うのである。
ちなみに、町名が麗々しく書いてあるあのテント、だれが金を払っているんだろう?
信号機が赤になっても、交差するとおりの信号が赤のママ。その時点では、そこには無法地帯が生じているといってもいい。
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