第28話 Vida Plastica

 Ruben Bladesというプエルトリコ出身のサルサの巨匠が書いた作品の一つに"plastico"という歌がある。歌詞の最初の1小節を簡単に訳すと、こんな具合である。

「彼はプラスティックでできた男、最近ここらでよくみかける。

安物のくしを手に、「俺じゃねえ」という顔をして、

話すことと言ったら、どの車が1番いいか、

やることと言ったら無闇に飯を食わないことさ。

何故かって言えばかっこよく見えるにはエレガントに闊歩しなけりゃ、

それでプラスティックガールをゲットしなきゃ、ってか?」

 やがて、プラスティックでできた男と女はペアになり、プラスティックの街に住む。そこには誇りも何もない。消費するだけの薄っぺらな生活。

 そのプラスティックの象徴する物はアメリカの文化であり、アメリカの文化に取り込まれたラテンアメリカの人々である。

 日本にいると感じないだろうが、中南米の人々にとってアメリカというのは強大で自分たちの文化を打ち壊すそうした存在であり、多くの中南米諸国はアメリカに複雑な感情を抱いている。それは19世紀にヨーロッパがドイツに抱いた、そして今アジアの諸国が中国に抱くのと似た感情であろう。


 プラスティックというものは便利な物である。

 軽く、水を通しにくく、整形しやすく、材質によってはそれなりの強度や耐久力がある。その上都合が良いことに(或いは、悪いことに)安価である。

 そして・・・それを使っている人間が薄っぺらだと、薄っぺらな価値しか生み出さない。アメリカ文化にまつわる消費への渇望とその薄っぺらさを、本来歴史や伝統、文化を育んできた先住民たちは心の底で蔑んだ。セントルシアというカリブの島に故郷を持つBladesもそうした視点を隠しきれない。

 アメリカという国家や文化をそうした視点からだけで捉えるのはいささか近視眼的なアプローチだと思うが、アメリカに根付いている資本主義的消費生活とそれを支えるプラスティック、それと倫理の欠如がどこか密接に結びついている感覚は拭えない。

 僕はプラスティックをなるべく使わないように生活をしている。風呂の椅子は木製、たらいは金物、買い物バッグはジュートと布、傘はビニール傘を使わないことにしているし、買い物の時はプラスティックバッグは買わない。

 それでも週一回のごみの収集の時には40リットルのゴミ袋(これもプラスティックである)はパンパンである。プラスティックの分別をなるべく厳密にしている(例えば納豆を買ったらケースだけではなく汁やからしの入れ物を水につけてプラスティックに分別する、程度ではあるが)事も一因だと思うけど、スーパーで買い物をすればあらゆる製品が必然性のあるなしを問わずプラスティックに包まれている。お菓子はプラスティックで個装され、更にパッケージに包まれており、キノコはプラスティックの皿に載せられやはりプラスティックのパッケージに入れられて店頭で売られている。しかし、これはやり過ぎではないのか?

 プラスティックと言う物は便利で安価だが、安価だからと言って安全だとは限らないし、安価だから幾ら使って良いという物ではない。ホモサピエンスが産まれて40万年経っているが、プラスティックのが使われ初めて僅か150年、その短い歴史では「何かを判断する」には短すぎる筈なのだが、気にする人は余り多くはない。

 それでころではない。ファーストフードなどはプラスティックのオンパレードで、あらゆるものにプラスティックが使われていた。さすがに近年では非難を気にして紙や木、その他の材質に切り替えているが、一部からプラスティックの方が使いやすいなどという消費者の声もあるようだ。つまりは供給側だけではなく需要側にも「そういう人間」がいると言うことである。

 だが・・・プラスティックは安くて便利という理由で生活に取り込まれ、やがて人間の王朝を滅ぼす佞臣ねいしんなのかもしれない。安くて便利な化学的物質というのは、ある程度の評価期間なしに使っていくと、その範囲や量によっては致命的な効果を及ぼす事がある。かつて建材として「革新的」な素材であった石綿アスベストが中皮腫を起こす原因となって使用が中止されたが、それは石綿の毒性(というか物理的特性)が即効性が高く、かつ致命的で明瞭だったのが排除の一因である。

 幾ら佞臣であってもすぐに馬脚を現しては臣とは言い難い。その点プラスティックには明瞭な毒性はない。ないが、使用の程度が激しく、その量が蓄積されていけば、自然物と異なった「環境への影響」があるのは容易に想像される。それが遅効的であるが故にpoint of no returnを既に超えてしまったことがあっても何の不思議もない・・・のかもしれない。

 いや、悲観的というわけではない。だが、マイクロプラスチックがどのような効果を自然に与えていくのかは不明である。自然にかつ無害に解体されることなく蓄積される化学物質というのは自然にとって「何の検証も受けていない」よそ者である事は事実なのである。それが全く無害である、という事を祈るのは構わないが、「無害である」ことを前提にいくらでも消費する、という行動パターンが正しいというわけではない。余り神経質になることを主張するわけではないが・・・。

 だから慎重に扱うのが正しいことが明白なのに、浪費することだけを主張する人たちが一定数いるのはなぜだろう?プラスチックバッグが有料化されると騒ぎ、エコバックを貶め、そちらの方が環境負荷が高いと言いだす。或いはそれよりも優先して削減するものがあるだろうと批判し(ということは環境負荷がかかるという自覚はあるのだろうけど)、そちらを実施しないことを自らの言い訳にするような行動を取る人間がいるのは何故なのか?

 温暖化をフェイクだとわめき散らしたアメリカの大統領がいたように、今の時代は(困ったことに)こう言う人間が選挙という(時折大きな過ちを犯す)濾過装置を経て国民を代表する存在になり得るのであり、インターネットの普及は(声のでかい馬鹿が勝つという原始時代を再現しつつ)それを後押ししている。放置すると、自制的なることを拒否するお子様たちがこの世にはなんと多いことか?

 だからこそ、政治はこうした状況に何らかの規制を行う必要性があるのである。自制的で良識のあるべき人々ならば不要な規制という物を発動しなければいけないのはそうしないと雪崩を打つように愚行が罷り通る時代だからである。単純に経済的ペナルティを与えるだけでいい。国際的にプラスティックを使用したら、原料1kgに対して「ドル」のペナルティが発生する、そのことだけで「無駄な使用」が制限されるだろう。僕はプラスティックを使ってはいけないと言っているつもりは無い。しかし、濫用すべきでは無いと思っている。本来なら規制はしたくない。しかし規制しないと駄目な社会というのはいつの世にも存在するのだ。

 あるいはそうすることによって代替的な製品の開発は進むかもしれない。ただ、その代替が同じ懸念を齎すような物であってはならない。


 プラスティックは便利な物であるが、その「価値」に対して「正当な価格」が形成されていないために「濫用」が生じているのだ、と理解すれば、その経済的なペナルティによって無駄な使用が削減される。せめてそのくらいはしないといけないのだ。

 いや、そんなことはない、と強弁するあなた。もしかしたらその強弁も「プラスティックが脳に悪い影響を与えた結果」見るべき物をみない、という症状に冒されてしまっているのかもしれませんよ。

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