第27話 harassment to smokers

 僕は自他共に認めるヘビースモーカーであったが、1年半前に病気をしてから、煙草を一本も吸っていない。

 どのくらいヘビースモーカーだったかというと、止める直前でも日に30-40本を吸

っていたし、いちばん吸っていた頃は50本を優にオーバーしていただろう。

 「がん」だと最終的に宣告された日、そんな僕が思い切って煙草をやめたのは別に強い意志を持っていたわけでもないし、飲酒や喫煙をしていた自分を恨んだわけでもない。煙草を吸い続ければ治療してくれるお医者さんに失礼だと思ったからだけで、手術までちょっとくらい「猶予」があってもいいかなぁ、という「思い」は残っていた煙草と共にゴミ箱に捨てた。

 だから今となっては喫煙者を擁護する理由は全くない。しかし、一部の人間による喫煙者に対する執拗な嫌がらせを見ていると非常に不愉快になってくる。


 以前harrassmentの定義として「優越的な地位をもった人間による」と書いたが、僕が煙草を吸い始めた頃、恐らく喫煙者は無意識のうちに「優越的な位置」にいたのであろう。今でこそ信じられないだろうけどオフィスであろうが列車であろうが、自由に煙草を吸える時代は僅か数十年前には「実際に存在した」のである。煙草を吸う側は「許されて当たり前」で「煙草を吸わない、嫌がる」人の存在を無視していたことが疑いない時代であった。

 だが今、時代は逆転した。

 今の時代の喫煙者は、前の世代に属する喫煙者の悪行(?)の竹篦しっぺ返しを喰らって極度に肩身の狭い思いをしている。世間一般のみならず、医者やら、行政やら様々な「正義の士」から槍衾やりぶすまのような攻撃を受け、こそこそと狭い空間に押しやられて「税金」という苦いフレーバーをまぶした葉を吸っている。

 まるで煙草の伝来した安土桃山時代以来(そういえば芥川龍之介に「煙草と悪魔」という短編があったなぁ)、今まで積もりに積もった恨みを晴らすかのような非喫煙者の行為だが、いささかみっともない過剰な攻撃としか思えないのは僕だけだろうか?本人たちが「自分が正義だ」と思っていることほどたちの悪いことはない。たいした正義でもないのを振りかざすことの愚かさ。あれは「ドイツ人はユダヤ人より優秀である」とか「武士は町人に優越している」というのと大して変わらない無様ぶざまな意見でしかない。もはや煙草による被害などというものは実質的には存在せず、「匂いが嫌だ」とか「感覚的に許せない」といった些末なものでしかない。そんな主張をするのは「行き過ぎ」であることは間違えない。社会的にそうなってしまっていても、それは社会の誤りである。

 余りに嫌煙権を主張しすぎる人々を僕は、寧ろ病的ではないかと疑っている。正義面で人を叩くのをなんとも思っていない人間ほど醜いものはない。

 更に全てではないが、過去に喫煙していた人が喫煙者を叩くという行為をしているのは珍しくない。どういうつもりか知らないが、誠にみっともない限りで、煙草をやめた自分が秀でているというとんでもない勘違いをしているのか、犯罪者が共犯者を売る行為をすることによって免罪符を得ようとしているのか、知らぬが、黙っていればいいものを、としか思えぬ見苦しい姿である。


 喫煙に対する風当たりが強いのは日本より欧米であるというのは確かで、20年も前にロンドンでは(ロンドンではと都市を明記するのは、イギリスでは場所毎、店毎に煙草の値段が異なっていたせいである)日本の三倍近い値段(当時の為替レートで20本入りパックが1000円以上)であったし、ニューヨークでも同じだったと聞く。帰国する際にヒースロー空港の免税店で煙草を買おうとすると、

「いや、日本で買った方が安いですよ」

 といわれる時もあり、免税の「税」は何なのだろう?と不思議に思った事がある。一方でその頃出張で行った南アフリカやチェコでは逆に信じられないほど安かった(記憶では20本入の1箱で100円以下であった)から煙草の原価などは恐らく、そこから推察するのが正しく、1箱せいぜい50円くらいが相場なのであろう。それを500円や1000円で売っている、つまりそれの殆どは税金なのである。(広告は許されていないから、広告費もいまはかからないだろうからねぇ)

 いや、まあそこまで税金を払って、その上忌み嫌われるのは馬鹿馬鹿しいけど、煙草なんぞ、純粋に僕は嗜好の問題であると思っている。酒飲みだって、自動車や自転車の運転だって、香水だって、携帯ゲームだって、農薬や様々な便利な化学物質だって、何らかの形で人に迷惑を掛けているし、危険だし己の命を縮める可能性を有している。煙草だけ取り上げて云々するのは正常ではない。中には社会保険の観点から国家として保険を維持するために先進国で禁煙活動が進んだという話を信じている人がいるが、実は欧米では健康に関する社会保障は日本ほど厚くはない。私的な保険会社は料率でカバーするから関係ない。

 この例からも煙草の周りには「ためにする」デマや噂や、選択的な非難が集中していることは明らかだが、嫌煙論者はその不公平さを認識することなく、煙草なら叩いても誰も文句を言わない、という理由で叩いている。いじめを誘発するようなこうした「下劣な感情」や「負の同調」というのは先進国であれ原始社会であれだいたいの人間が無意識のうちに持っているのだ。かといって、僕は喫煙者や喫煙を支持するものでもない。そんなのは非難するほどのことではない、と思うだけだ。

 煙草の吸い殻を捨てる人間が許せない、煙草を吸っている人間は道徳的意識が低い、などと主張している人も見かけるが、「それは煙草を吸っているかどうかにはかかわらない」。煙草を吸っている人間にも「道路にものを捨てない」人間はたくさんいるし、吸っていない人間にも「飲み物の缶や瓶を捨てる」人間はたくさいいいる。「捨てられた煙草の吸い殻」を選択的に問題にしようとする浅ましい考えはやめたらどうだろう?(ここでいう浅ましい、というのは薄っぺらいという意味で使用している)

 まあ、これほどまでに社会的にも経済的にも不利な状況でなおかつ煙草を「やめられない」人は「意思が弱いのではないか」などと、余計なことを言う人も多い。

 確かに「やめたいのにやめられない」と告白する人間は多いし、ニコチンは確かに習慣性の強い物質である。だが、個人的に言えば吸っていた当時は「そんなのは全く関係ない」と思っていたし、今でもそう思っている。現実に、今より以前にも昔半年ほど禁煙していたこともある。それはその時「煙草が不味い」、と思ったからで、別に人に言われたからではない。

 煙草が誠に不利なのは、煙が出てそれが周りに広がることであり、それが他人の環境を害するおそれがあるからである。

 確かに煙草には副流煙があり、本人以外の健康に被害を与える可能性もあるし、においはある程度強いから配慮するのは社会的に必要な事であるが、それも一般的な限度内の話で「1ミリたりとも許さない」みたいな話にはどこにも正義は感じない。(だいたいこういう線引きはセクハラとかでも難しいものだから、合意や配慮というプロセスが難しくなった世の中では「1ミリでも」みたいな極端な話になりやすいのではあるけど)

 いずれにしろ、僕がもし煙草を吸うとしたら、死ぬ1日前であろう。それまでは煙草は吸わない。離脱も面倒だし、吸わなければ吸わないでも済むからである。一方で煙草なら一方的に叩いても構わないなどと考える社会的病理に対しては断固、反対する。何にしろharassmentは良くない。喫煙側からであろうと、嫌煙側からであろうと、だ。

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