第23話 同性愛の受容
LGBT、或いはLGBTQIA+などの同性愛、及びそこから派生する様々な「性愛に関する受容度の拡張」という主張が叫ばれ始めてから、既に永い時間が経過している。残念ながら我が国では、その入り口に突っ立ったまま、前にも後ろにも動けないような状況が続いているが、この問題は歴史的・宗教的・政治的・社会的な様々なファクターを内在しているので、問題の解決が容易でないことは理解できる。
とはいえ、この問題の本質とそのセトルメントは非常に単純だと僕は思っている。つまり、「であるという事を理由に差別してはならない」を援用すれば良い。憲法にある「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という条文の「人種、信条・・・」の最後に性的嗜好を加えればいいだけで、それ以上でも以下でもない。
そんなことを分らない政治家がたくさんいる事の方が驚きであり、LGBTの人間に生産性がない云々という馬鹿げたことを言った政治家が「まだ議員」である事はもっと驚きである。そして愚か者に支配される国民が愚かだから愚かな政治家を選ぶのか、愚かな政治家に支配されているから愚かな国民になるのかは興味深い命題である。
愚かな主張をする人間に限って、どうやら妙な生産性が高そうで、怖い。子供を産むことを生産性で語れば強姦でも生産性が高くなりそうである。そういえば元TBSの記者が強姦をしたのに「女性はいくらでも嘘をつけると、当の「生産性向上委員」会(笑)の女性議員がのたまわったそうである。なんだ、その生産性って?
多分犯罪に相当近い生産性であろう。もはや
とはいっても、僕は取り立ててLGBTの人間を評価するわけでもないしそんな義理もない。もちろん僕自身もそうではない。かつて僕にもLGBTの知り合いもいた。疎遠になったのは事実だが理由はLGBTだからではない。僕自身はヘテロであるし、ヘテロである事に何の違和感もない。
好きな作家や音楽家には、LGBTがたくさんいるがプルーストであれ、トーマス マンであれ、トルーマン カポーティであれ、ウラディミル ホロビッツであれ、LGBTであることはその芸術性を高める物でも逆でもなく、評価と無関係と言うことである。彼らはそうであることによって、何らかの才能の開花と関係しているのかも知れないけれど、それは評価とは別の話である。
いや、だからこそ平等なのである。
同様にテレビに出てくるタレントでも様々な性癖の人がある事は承知しているが、それは評価とは無関係であるという事でしかない。マツコデラックスは面白いけど、それ以外は面白くない、で一向に構わないわけで、ただ、「彼(彼女)はホモだから嫌い」と言うことさえなければいいのである。いや、内心で「嫌いであるかもしれない」が「嫌いであると」公言するのは無作法で品性がないのみならず、それを以て差別的言辞を弄じたり、実際に差別を行うのは論外ということである。例えば1960年代のアメリカにおける黒人の公民権や、現代におけるムスリムの中での女性の社会進出と同じで、そこに多様な意見や立場があるとしても「被害を受ける立場」に立ってものを考えることが出来ない「哀れな思考」は叩き潰して構わない、と言うことで良い。
一方で、「嫌いであることの内心の自由」は常に確保されており、その
もっとも、これが社会的や法的な話だけであればその一本で押し通せば良いのだけど、そこに「宗教」というややこしいものが絡んでくるので多少やっかいなものがある。「宗教」には様々な側面があり、そのおおかたは「どうでもいい話」なのだけど、文化的・政治的・社会的だけでは言い尽くせない「忌避」の側面があり、その根源を見据える必要がある。その上宗教は歴史的に「道徳」の側面によって構造的に必ずしも堅固ではないが(宗教者の性的暴行が極めて多いことはその証左である)社会を支えてきたことも事実である。
イスラム教が豚肉の食肉を忌避し、仏教がさらに幅広く「肉食」を忌避し、キリスト教が「姦淫」を忌避し、というのはそれらが何らかの理由で否定しなければならない時代的側面があったから、である。モハメッド時代には豚を食することで病気などが流行したのかもしれないし、そもそもキリスト教でも嫌われている豚の貪欲さは人々に清潔に見えなかったのかもしれない。肉食を嫌がるのは、屠殺行為に対する忌避だろうし、
そもそも同性愛というのは宗教とは両立しないもので、それも(恐らく)いかなる宗教とも相性が悪い。なぜなら、それは「神の摂理」と一見して矛盾するからである。神という存在を認めた途端、それを避けるのはとても難しい。なぜならこの場合神は(生物的な)「自然」を背負っているからである。
またその理由の一部は主要な宗教が成立した「時代」によるものでもあろうし、宗教が依って立つ「社会的条件」や、実は宗教が滅茶苦茶に「世俗的」(でない場合は滅茶苦茶に反社会的)であることにも関連する。(つまり宗教はその出自において実は個人に重きを置いているように装うが、実は個人など全く重きを置いていない、だからこそ常に集団化するのである。主要な宗教でも最初の内はおおかたそんなものである。21世紀に至るまで宗教というのは「烏合の衆」を集めることによってなりたってきた。キリスト教の良質の亜流とはいえないモルモン教、エホバの証人、世界平和統一家庭連合といった宗派がいずれも「即時に」同性愛を認めていないのは、基本的に宗徒に「考えることを認めない」事を表象する事象でありどちらかというと反社会的なこうした宗教は「論ずることなく」LGBTを否定する側に回る。
そして本来その創立時には、「反社会的」であったキリスト教でも、創造神ヤハウェは、「男と女が結ばれるべきだ」と高らかに宣言(旧約聖書)し、コリント書に於いても「男色者は神の国を相続しない」事になっている。男色者に限定している以上恐らく当時は男性による同性愛がより問題になっていたのだろう。
しかし、現代に於いてキリスト教は当初の原理主義を失っている。原理主義は宗教の強さであると同時に宗教の狭隘さと愚かさを発言させる根拠であるから、基本的には結構なことだ。そんなキリスト教に於いては「イエスキリストは何も触れていない」ことがLGBT許容の根拠となっていると言う話もあり、「言わないから良いんだ」という子供っぽい主張を聴くと思わず頬が緩んでしまう。
カトリックの一部で同性愛という欲求自体は許容するが行為は許容しない(却って苦しみを生み出すかもしれない)とか、東方教会の同性愛は宗教上の罪であるがその迫害は許容できない、などというかなり苦しい見解が出てくるのも宗教の原点と時代の齟齬から生まれてくるものであり、まともな宗教家はその齟齬の中で苦しんでいる。
一方、福音派教会、正教会、カトリック教会は「共同声明マンハッタン宣言」で同性愛者による婚姻を否定したのだけど、この方が宗教の原理的な本音といえるが、残念ながら近代社会に於いてこの問題はそれで片付けられるものではない。
この婚姻という「社会的制度」と「同性愛」の折り合いをどうつけていくのか、というのが社会と宗教に出された宿題である。
とはいえそもそも「結婚」を主張している以上、同性愛者がその主張に於いて「非常に淫らな」関係を想定しているわけではないことは明白である。その意味では結婚を前提をしない「非常に淫らな」ヘテロと結婚を前提としたホモのどちらが正しいのか、という問に宗教はどう答えるのか?(たぶん、どっちも駄目というつまらない宗教的回答をするのだろうけど)
宗教というのはある意味救いのない社会、救いのない個人の愚行に対する救済を目的としたもの(キリスト教の創生期や平安時代の仏教などを思い浮かべれば容易だろう)であり、結果として「烏合の衆」を纏める物であろうとその歴史的な救済的価値や、社会のスタビライザーとしての道徳的側面を完全否定することもできないので、簡単に切って捨てることは出来ず、LGBTのアクセプタンスもしばらくはその狭間で行ったり来たりすることになるのだろう。
一方でとある芸能事務所のトップが事務所に所属する少年を同性愛行為の対象としていた、と言うような行為は「同性愛の受容」とは無関係なところで「同性愛への忌避」を生み出すことになりかねない。もし、これが事務所の「少女」であったなら、明らかな淫行であるのに、対象が少年であったことにより隠微な形で進行し隠蔽されていた事実は実に
中にはその事務所のアイドルのファンが事務所を擁護するような発言をしているらしいが、もしその発言をしたのが女性だとしたら一体どういう神経でそれを正当化しているのであろう?女性に対する淫行は許せないがBLなどというタイトルを付ければ許されると考えているのだとしたら誠に気持ちの悪い神経である。自分たちが性的被害の対象でないならば許容するという無神経さこそは鈍感で見過ごせない下劣な精神である。
だから、LGBTQ+に関して言えば「それは男女の性愛と同じ形で裁くしかない」というのが正解であり、それを否定するのも下劣な形で許容するのも許されない、そうした健全な社会の精神があってこそ、正しく受容されるのだと考えるべき、というのが僕の大学時代(に同性愛者と知り合った)に出した結論で、今なお
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