第21話 オートマ車という欠陥
ちょっと前の話になるが、池袋で老人が運転する車が暴走し若い母親と幼子を轢死させるという事故があった。その老人が経済産業省のOBであり、そのドライブの目的地がフランス料理店であり、自分に責任がなく車(プリウスのオートマ車)の欠陥だと言い張った上に、しばらく逮捕もされなかった事で大炎上を招いた事は記憶に新しい。様々なメディアで取り扱われた理由の一つはインターネットの発達した世界では、マスコミがインターネットの中から「世間」を抽出しようとするからである。その意味で彼の主張は大変愚かであった。それは今の世界に関する無知が招いた事である。50年前ならばこんな事にはならなかった。20年前でもこれほどのことは起こらなかったであろう。
彼がどんなつもりでそんな主張をしたのかは知らないが、しかし、もしその意味が「オートマ車はそもそも欠陥品である」という主張なら僕には多少理解ができる。その上で、「あなたは経済産業省でその欠陥品を許した張本人の側である」という二重の罪を新たに道義的に与えたことであろう。
しかし誰もがオートマ車そのものに対して何も批判しないというのは誠に不思議なことである。おそらくその思考の最初にあるのは「例え危険なものであっても、その危険を承知の上でコントロールすべきであり(でなければ包丁やノコギリも批判されるべき物である)それが出来なくなった場合免許を返上すべきである」という確たる信念であろう。しかしオートマ車の存在におけるこの論理の適用には二重の難点がある。あの事故の前にも後にも同じような事故が数え切れないほど起きている。それが単にコンビニを破壊するだけの物であろうと、死者を伴う物であろうとこのシステムは常に免責をされているのだ。
そもそもオートマという車は(そもそも包丁やノコギリと違って絶対的に必要な存在ではなく・・・つまりはクラッチ車の代わりに)老人や女性が運転しやすいという目的で作られた物である、と僕は理解している。そして内在する重大な欠陥は「老人が運転しやすくする事の代償に老人による事故を招く温床になっている」という事実である。その論理矛盾が許しがたい、筈なのだ。
「製品の欠陥」はさまざまなものに様々な様態で存在する。その中で「リコール」をしなければいけないケースというのは「その欠陥故に人が死亡する因果関係の強さ」にあると僕は考えていて、実は昔、欧州で「会社初の?」リコールを主張したことがある。電源アダプターの性能のスペックが弱く、欧州(英国)の「やや甘めな」電圧の設定の範囲の中で故障を起こし、燃えるという事故があったためである。
オートマというシステムは「ミッション機構」で死亡しなかった多くの人間を死亡させていることは間違えない。ならば、そのシステム自身がリコールされるべき欠陥ではないか、という意見があっても良いはずではないのか?
もう一つの難点を指摘しなければならない。免許というのは「その行為をすることを許可するという行為」である。つまり免許を許可するものはその免許を与えたことに対して全てとは言わないが、一定の責任を持つものである。であるからドライバーの善意に基づいて免許の返上を促し、返上をしない、事実上免許を持つべきでない人間を放置するのは免許を与える者として無責任なのである。百歩譲って、もしもその危険がドライバーのみに帰着するならばそれでも構わない。だが、その無責任さが他人を傷つけるという可能性がある以上、免許を与える者はその責任を共有する意識を持たねばならない。事故を起こした者が一度免許を返上しても再度免許を交付され再び事故を起こした場合、その免許を安易に交付した者に全くの責任がないと言えるのだろうか?それだけではない。例え事故を起こしていなくてもその能力を失った者に免許を与え続けるのは正しいのだろうか?
世の中の免許に対する考え方そのものに問題があるのは事実である。例えば医師免許・弁護士免許・・・そうした職業というか食い扶持そのものに直結している免許は簡単に失効すると保持者の生活が成り立たなくなる可能性がある、とされ一度与えられた免許はよほどのことがないと失効しない。(手術のできない医者や能力のない弁護士の顧客になった者は不幸である、だけである)運転免許に於いてもそれで生活している者がいることは事実である。しかし、会社員であっても何か事故を起こしたり、罪を犯したらおなじレベルで「生活が成り立たなく」可能性があるわけで、それが免許を与え続ける理由にならないのは自明の理である。
即ちオートマ車の欠陥を許容し続ける社会は、同じように欠陥を内在し許容している欠陥社会なのである。その社会に殺された遺族は単に事故を起こした犯人のみならず、欠陥を許容し続ける社会に対してもVETOを突きつける権利を有しているはずである。
その上、オートマ車に関しては「その存在を許容しなくても良い簡単な方法」が存在している。つまりオートマ車がなくてもクラッチ車を使うという方法が存在し、クラッチ車を使えない人間は免許を取れない、免許を更新できないとすれば良いのだ。それで何が問題があろうか?少なくともクラッチ車でおきる事故は「暴走」に成る可能性が格段に低い。なぜなら「エンスト」というフェールセーフが存在するからである。そして「過失致死」の代わりに「自損事故」とせいぜい「車両事故」が増えるだけである。
という位のことは世の中の常識で主張されて何の不思議もないことなのに、なぜ一般的にならないのか、ということに少し闇を感じるのは僕だけなのだろうか?
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