第20話 「大衆による、大衆『への』反逆」のすすめ

 東大出版会から発行されているViajeros(旅人達)というスペイン語語学テキストをしばらくぶりに読み返している。その中にJose Ortega y GasettのLa “Rebelion de las masas”(大衆の反逆)の断章だんしょうが掲載されていて、大学以降初めて全文を読み返そうとネットで調べた。幸いにも文庫本で筑摩書房と岩波書店で邦訳が出版されている。できれば原文で読みたいところだが手に入れるためには取り寄せが必要なので、取りあえず近くの書店にあった岩波文庫を購入した。(岩波書店のものは「フランス人のためのプロローグ」と「イギリス人のためのエピローグ」が収められているのでお勧めである)

 さっそく、その日のうちに「フランス人のためのプロローグ」(フランス語版を出すに当たっての序文)を読み終えた。このプロローグは本文より端的に著者の考え方を示している。原文にも訳文にもこのプロローグが入ったものと入っていないものもあるから、注意して選択した方がいい。

 

 さて、最初に著者に対するやや批判めいたことをまとめておきたい。著者ホセ オルテガ イ ガセットはしばしば「哲学者」と紹介されるが、ジャーナリスティックな部分もあり、また政治経済学者でないわりにその方面に論評をしている。その意味では哲学者と言うよりどちらかというと思想家とか評論家(優れた)としてこの本を読んだ方が良いと思う。彼の哲学がパースペクティズムであるという事実は観念的な哲学から脱却した時代の哲学である、という事実を示すと同時にいわゆる世間一般の認知に存する哲学から発展、或いは離陸した地平にその理論が存在するということである。例えばデカルトが思惟しいで、或いはカントが観念でもって解き明かそうとするものに、思考をする「者」の視座を入れて現実的に解決しようとするとき、往々にして哲学の陥る袋小路を脱する代償として思考の限界を告白し、純粋な哲学の地平から少し浮き上がることにならざるを得ない。

 これは哲学者に関する彼のスタンス・・・「哲学が支配するには、ただ哲学があればいいのだ。つまり哲学者が哲学者であればいいのだ。約一世紀前から。哲学者は(中略)哲学者以外のすべてであった」(注41:文庫本による著者の注)と相反するように聞えるが、畢竟ひっきょうそれは哲学、ないし哲学者というタームの定義の違いでしかない。

 この書籍に於いて批判されるのは「大衆」のみならず、彼以前の「哲学者」「思想家」ないしは「政治学者」であり、単純化すると彼らが「理想的な市民」を前提として構築された理論は、その前提が間違っているという至極もっともな指摘であり、その直感的な視座は正鵠せいこくを得ている。

 一方で、彼は政治経済学者ではないのでその領域に於いてはやや疑問符がつく言葉の使い方もある。例えばこのプロローグにおいても「集産主義」という経済学のタームと「自由主義」という政治学のタームが対立的に使用されているが、「全体主義」vs「自由主義」「集産主義」vs「自由経済」という対立軸で捉えた方が分りやすい。またその対立軸の延長というか根源に「規範となるべき人間(一種のエリート)」と「大衆」(とは書いているがその実態は社会に浮遊している愚衆と言っても差し支えない)の対立が存在するわけで、その峻別しゅんべつする姿勢に於いてオルテガ イ ガセットに対し選民的な傾向があるという批判が出る。しかし社会の実態はほぼそれに近いもので、その点は仕方あるまい。少なくとも彼が出自とかそういうものを前提にした区別ではなく、個人の能力を基準として区別している点に留意したい。

 また彼の関心が「ヨーロッパ様式の多様性は西洋の宝」であり、「東洋の永久に続く専制下に存在すべく生まれた、動きの鈍い人間」の「粗雑な頭の持ち主」であるという記述に対し、我々(東洋人の一種)は置き去りにされている、と考える人もいて不思議ではない。だが、彼の指摘する el hombre-masa(大衆の一人としての人間)は人種・職業を問わず存在し(欧州に於いても)、それが「多様性をベースとして同一性の波に洗われてもそこから多様性を生み出してきたはずの欧州」においても支配的になっていくことへの恐れを描いているのであって、そこに偏見があっても議論の大筋は間違えていない。彼はそうで「あるべきでない」欧州に於いて事態が悪化していることを嘆いているのであってその時点に於いて東洋は欧州に取って代わる存在とは到底思えなかっただけである。この書物が書かれたのは今から百年近くの昔、1930年の事である事実も考慮に入れるべきであろう。(更に公平に言えば「東洋の永久に続く専制下に存在すべく生まれた、動きの鈍い人間」の「粗雑な頭の持ち主」は未だに東洋に於いて「現存するという事実」も見逃してはならない)

 また「イギリス人のためのエピローグ」において英国の連邦制度に比較して国際連盟に欠ける柔軟性が国際連盟の機能を損なっているという論旨は現在の国際連合に関してもちまたで(大衆によって)言われている論旨を含んでいて、明確に失敗に終わった国際連盟の反省を踏まえて作ったはずの国際連合の機能不全をそしる人々は少なくはない。けれど、様々な点に於いて対立要素を含む国際機関が機能不全に陥ることはある意味仕方のないことであって(そうなることを前提とした上で)、「それでも会話を途絶させないこと」、に重点が置かれていることを理解する人は少ないだろう。もちろんそうした機関の中にはコロナに際し、極めて不十分な初期対応をしたWHOのような「使えない存在」もあるが、それが機関そのものの構造的な問題なのか、経済的な問題なのか、それともコンタミネートされた恐れのあるトップのせいなのかは分らない。また英国の連邦制度も(昔からもそうであったが)内部からの疑問視は相変わらず続いていおり常に離脱を目論む勢力は存在する。そう言った意味では彼の指摘はややあたらないこともある。

 そもそも国際政治というものは「政治の中でももっとも調和や統一とほど遠い場所にある政治的場所」であるが故に「もっとも政治的利害の対立が激しくなる場所」である。国際連盟・国際連合というとのもかくにも全世界レベルで「議論の場」を作ったばかりの(例えば欧州における対立の構図でさえ何百年と続いたのであるから)揺籃期ようらんきとして見ることも出来るわけである。もちろん世界を刻む時計は中世に比較してどんどん速くなっているのだからいつまでも揺籃期と言っているわけにはいかない。またその脱皮が「戦争」という過程を経ないとできないとしたら大きな問題ではあるが。


 ここまではオルテガの書に関する若干の疑問点を洗い出してきたが、実はそんなことは些細な事柄で彼の直感的な視座は時代を遙かに超えて現代、いや直近に膨れ上がっている大きな問題をあばいている。その視点はただ一点、大衆という近代に現れた化け物に向けられている。それに対する彼の主張は極めてシンプルである。本来では沈黙し、規律の枠内で生活すべき(それが彼らのすべき仕事である)大衆が勝手に自分を主人公だと勘違いし、勝手なことを言い出す、それに対してCalle(静かにして)いや、Calla(黙れ)という一喝である。

 こう書くと、ずいぶん乱暴に思えるかも知れないが、今やSNSを初めとして世界中の大衆が「勝手なこと」を無責任に放言している。死後六十八年が経ってオルテガ イ ガセットがもし蘇ったら頭を抱え込んでしまうだろう。

 「Nobilitate(貴族性)のかけらもない大衆」と彼がいった場合、その概念と対峙する貴族とは社会階級としての貴族と言うより、プラトンの言う哲人に近い、と僕は捉えている。(世の中で最も効率的で正しい政治は哲人政治によると僕は密かに思っているが、同時に哲人ほど担保の難しい存在はないとも思っている)

 そして貴族(ないしは哲人)と対立する存在が大衆でありその大衆について彼は断言する。

 「馬鹿は死ななきゃ治らない」ではなく、「馬鹿は死ぬまで馬鹿である」と。

 この文庫本の後書きの筆者である宇野重規氏は「エリートの視点から、高みにたって大衆を批判する本なのだろうか」と疑問を呈しているが、必ずしも「高みに立って」はいないが、「大衆を批判」していることは疑いないし、そもそも著者は「高みに立つ」ような悠長な心境ですらないのである。

 イソップ寓話集の中でゼウスの命を受けたプロメテウスが人類に示した二つの道、即ち「自由の道」と「奴隷の道」のうち、「初めはごつごつして抜け出るのも難しい自由の道」を選ばず「初めは広く平坦で、花咲き乱れ、目や口を楽しませる奴隷の道」を選んだにもかかわらず、「自己の肥大と忘恩」の精神、テクノロジーの進化によって「満足しきったお坊ちゃん」でいられる大衆の暴力的な存在に彼は激しく苛立っているのである。彼らはそれが「最後には抜け出すのもむつかしい険しい崖道」になることを知ってか知らずか、周りを巻き込んだまま崖の底へと導くのである。自分の生きている内にそれが実現さえしなければハッピーなのだろう。


 それにしても、なぜ著者は大衆の愚かな行為の源泉がキリスト教という宗教の規律から逸脱したため、ととらえなかったのであろうか?現実にはたぶん、ヨーロッパに於いて大衆は貴族への従属ではなく宗教への帰依によって「勘違い」から逃れていたのだと思う。だが、オルテガは恐らく宗教への回帰が「解」にならない、いや寧ろ「害」になる可能性があると思ったのではないだろうか?或いは彼の歴史観の源泉が「神は死んだ」という世界観を唱えた(世界観という言葉は最近、「設定」とか「建付け」の代わりに濫用されているが極めて不愉快だ)哲学者にあるからだろうか。確かに近代以前に宗教が大衆に規律を与え、ある意味縛っていたというのは確かなことであるが、それをこの問題の解にしないというのは現代に於いては極めて正しいアプローチのように思える。

 とりわけ新興の宗教が現代に於いて一部の大衆に与えている犯罪的な行為は日本にとどまらず様々な国に広がっている。一方で宗教としてまだ活火山であるイスラム教や社会的宗教と化してしまっている一部の共産主義(共産主義は思想的に大衆が神であるという宗教に近づいている)などは事態を解決するどころか、時代を混迷させる要素に過ぎない。

 生活が困難でそれを明確に搾取している存在があり、それが社会を規制している時代、庶民にとって宗教はある意味救いであった。今なお、そうした形で宗教を必要としている人々の存在はあるし、イスラム教がそうした地で猖獗しょうけつ(と言って構わないであろう)を極めているのは故ないわけではない。だが宗教は歴史的に規律を大衆に押しつけつつ、その背景にある宗教団体機構による愚行を常に担っている。現在イスラム教を非難しているキリスト教も昔は魔女狩りを始めとして宗教の衣を借りた犯罪を行ってきたし、その一派は今なお犯罪行為を続けている。仏教もさして変わらず崇高な僧もいたがその何十倍も破戒僧はいたのである。イスラム教とてその轍を踏んでいないわけではないだろう。少なくとも近代化が完了した国家に於いて宗教が民を救う存在であった時代は終わったのだ。今なおそれを求める人々は現代に生きているのではない、というのが実情なのである。その病理は別のところで論議しなければならないが、あるべき姿はそれが正しい。

 では、「貴族」が解決するのか、といえばオルテガ イ ガセットは真面目にそう論じているとは思えない。彼は「貴族性」は重きを置いているが、旧来の貴族が必ずしも「貴族性」を持っていないことは百も承知である。例えて言えば、ゲルマント公爵やノルポワ侯爵(プルーストの「失われた時を求めて」の登場人物である貴族)がそんな問題を解決できるとは著者も考えていないだろうし、僕にも信じられない。しかし欧州こそが本来世界をリードすべきで、その源泉は歴史的に欧州のみが持つ「貴族性」であるというのが著者の強い信念である。

 ただ・・・オルテガは一方でその実現に強い懸念を持っていた。1930年当時、工業国として台頭してきたアメリカと、正直どうなるのかは分らないがもしかしたら強大国になるのではないかと当時思われていたソビエト連邦の狭間で凋落が予見された黄昏の欧州が没落することで世界が「大人になれず、要求をするばかりで責任を持たない大衆に溢れる事への絶望・・・。

 第二次世界大戦の前夜に書かれたこの著書の「絶望」は、しかし戦争の中でいったん方向性を失った。欧州の伝統を継いでいたドイツとイタリアがヒトラー・ムッソリーニの台頭で「悪」の国家と変貌し、欧州はその暴虐の中で瀕死の状態と化したのである。唯一侵攻を遁れている英国が頼ったのは米国であり、ドイツの侵攻に対峙したソ連は友敵理論の結果として味方として認知された。スペイン内乱の中で独裁と共産主義の双方を憎んだが、欧州を結果的に救ったのはその両国であり、スペインは欧州の片隅でフランコ独裁政権というナチスの残渣を残す体制のまま取り残されたのだ。「欧州」に関する彼の基本的なスタンスは、戦後体制の間で著しく齟齬が生まれたのである。

 だが、戦争が終わって半世紀を過ぎ、戦争で泥水のように濁った国際政治は次第に沈殿の過程を経、以前の透明性を取り戻しつつある。ロシアでの共産主義は潰えたが、経済的にはともかく政治的にはツァーリの時代に戻った。中国は共産主義の残滓を抱えたまま皇帝を作ろうとしている。一方でアメリカは一時陥りかけた愚かな、大衆を扇動する政治体制をなんとか克服して欧州と歩調を合わせつつある。しかし逆に言えば、アメリカの「議会襲撃事件」に見られるように「愚かしい大衆」はゾンビのように増殖しているようにも見受けられ、それをアメリカの国民と政治体制が抑制できるのかも分らない。日本でさえ「自由民主」を唱える政党が自由や民主という根源的な価値を破壊しかねない属性をもった政治集団を抱えている。

 では「自由の道」を求める人が「奴隷の道」を歩む人々に阻害されることのない世界。いわゆる大衆「への」反逆をどうやって構成できるのか?畢竟、僕らの大半は大衆であり僕自身も大衆の一人である。

 その大衆の一人としての視点から見たとき、「『大衆』を一つの属性として纏めないこと」のみが解決の手段なのだろうと考えている。実は「大衆」は「大衆」に過ぎなくても歴史的に覚醒した「大衆」である瞬間があるのだ。それは「正しい道」にon trackしていると感じた瞬間である。例えば第二次世界大戦直後の日本は「大衆」が自覚した時代であった。

 しかしその時代でも「自覚しない大衆」は存在したのだ。つまり「大衆」はある視点から見たときは「塊」なのだが、「大衆」の視点から見たとき必ずしも同質の「塊」ではない。「大衆」の特質は「流されやすい」集団である事は著者の指摘からも明らかであるが、その「大衆」の中で「最も悪い部分」以外は「正しい道にon truck」しているときには愚かな行動はしないのである。

 「大衆」が「大衆」に対して反逆する、その流れを作ることが出来る能力こそこれからの政治に求められるものであり、時代を逆行したり、大衆をけしかけたり、大衆からカリスマ扱いをされようと試みるようなそんな政治はもはや必要とされないのではないか?


”Viajeros” Departmento de Espanol, Universidad de Tokio Komaba :Editorial Universidad de Tokio ISBN 978-4-13-08128-5

「大衆の反逆」オルテガ・イ・ガゼット著 佐々木孝訳 岩波文庫34-231-1 ISBN 978-4-00-342311-0

「イソップ寓話集」中務哲郎訳:岩波文庫32-103-1 ISBN 4-00-321031-X:383「二つの道」


補遺:2023/5/19

以前、この文を揚げた時、 

「『Nobilitate(貴族性)のかけらもない大衆』と彼がいった場合、その概念と対峙する貴族とは社会階級としての貴族と言うより、プラトンの言う哲人に近い、と僕はとらえている」

 と記した。これに関して、スペイン語の原文に当たっていたとき(漸く原文を手に入れることが出来た)に、その序文(introduccion)をインディアナ大学のJulian Mariasがオルテガ自身の文章を引用して下記のように指摘しているのを見つけた。

Y,subrayando esa independencia, continua:<Para que la filosofia impere no menester que los fiolosofias imperen ---como Platon quiso primero--, ni siquiera que los emperadores filosophen--- como quiso, mas modestamente,

 大意としては、「(オルテガは)この独立と言う言葉を強調して、続けた。『哲学の支配というのは、プラトンが最初に望んだ哲学者による支配、あるいは次いでより妥当な形態としての哲学王による支配ということを必然とはしない』」即ち、支配者が哲人、哲学者ないしは哲学に習熟した君主である必要はない、しかし哲学が支配するべきであるには変わりないと言うことである。確かに為政者が基準とする行動原理が哲学に則った物であれば、その政治がみだりに流れることはない、それこそが重要なのだ、という考えは納得のいく論理である。プラトンの哲人政治というものの内容をよく理解しないまま、少々迂闊うかつに筆を滑らした感は否めないので補足・一部訂正しておきたい。

 プラトンという人は民主主義がソクラテスを殺したとき、哲人政治を唱えたのだが、当初は確かに哲学者による政治、ついでディオニュシオス2世という僭主を教育して哲人の王にしようとした。しかし僭主せんしゅと哲学者は共存するものではなくプラトンは命からがらアテナイに戻らざるを得なかった。彼の危惧した民主主義の有り様は、オルテガのそれに似たものであり、その懸念は時代が下るにつれますます強まっている。民主主義を否定することは出来ないが、今の民主主義があるべき姿なのか、と言えばそうではない。だからこそ民主主義を否定するのではなく、より望ましい民主主義の形を模索するべきなのが我々の使命であって、全体主義が一見効率が良いからと言ってそのおぞましい形態に飲まれてはいけない。アメリカでも日本でも一時懸念された全体主義的な動きは少し収まったように見えるが安心してはならないとつくづく思う。

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