第18話 「賞」とは? 自己判断の放棄のその先に・・・
世間に次々と怪しげな賞が産まれ、あっという間に広告や店頭に溢れ始めたと感じたのはいつ頃だったろう?
街角で、テレビ通販で、そしてあらゆる場所で平凡な商品に英語やらフランス語やらの「受賞」がつけられて売られている姿は、地方のちんけな権力者が
残念ながら賞は物を買わない基準にもなり得るのである。
小学生の頃、書道やら読書感想文で賞を貰ったことがある。「賞」を貰えば励みになるし、もう少し頑張ろうという気にもなる。だがそれは「公平に」「私心無く」授賞された物だからこそそう言う気になるのである。また、だからこそ、その賞を受けた人を僕らはリスペクトし、その賞の権威を認知するのである。
だが、いつのまにかある特殊な商売人たちが「賞」を人や商品に箔をつけるために用い始めた。それは
だが、更に悪いのは常にそうした判断力の欠如やイノセンスにつけこむ側である。これは「おれおれ詐欺」に騙される側と騙す側の構造に似通っていると言えないこともない。違法から合法へのスペクトラムの中に似た構造が見え隠れするのが現代という時代の特徴である。元凶と元凶のこやしは共犯関係を保ちつつ世界を侵食していく。
他人依存の評価は、技術の進歩と共に別の世界にもみられるようになった。その最たるものはネットでの「評価」である。そもそも専門家の評価でさえ、怪しいこの時代、「名もなき」人の「能力も無き」評価にさえ平然とこの世界では依存しつつある。
そして・・・最近の賞の劣化は従来、相当に権威のある「賞」にも及んでいるように見え、また商品のみならず芸術の分野にも及んできたのである。むしろ芸術ほど実は「賞」の定義が曖昧であり、「権威」を
そうやって僕らがぼんやりとしている間に「賞」という本質を外れたビジネスやら「評価」を代行するビジネスや更に始末の悪いことに世間の評価に乗っかるビジネスが成立してしまったのである。正直言って粗悪な「賞」もっともらしい「いいね」、ネットでの星4つなど、どれ一つとして何の意味もないのだけど・・・。むしろ「この賞品にこんな評価を与える(それが良い評価であろうと悪い評価であろうと)」評価者は「ろくでもない」人間であるという変な重層構造が妙に意識される時代になった。
本来、賞というものは「与える者」と「与えられる者」の二者間で成立しており、「与える者」の中立性によって権威を保持してきた。だが、二者間に見物客とスポンサー擬きが群がり介在し、やがて「賞」の授与がマスコミに大々的に報じられることにより、イベントの性格のみが突出してきたのである。ノーベル賞しかり、アカデミー賞しかり、ショパンコンクールしかり、芥川賞しかり・・・。それでもその賞を選考するものたちが毅然として、「賞ビジネス」の考えを排斥する人間だったらともかく(それはスポンサーの意向で選考者が選ばれる以上、ほぼあり得ないのだけど)、「賞ビジネス」に取り込まれていった結果、残念ながら「賞」に関する権威は薄れ関心が低下していくのは仕方のないところであろう。
それでもまだ「長い期間を経過したおおきな成果に対して与えられる賞」に関しては「その授与に対して多少のブレや疑念が残る」ものの「滅茶苦茶見当外れ」であるっことは少ない。例えば文学賞や平和賞を除くノーベル賞などは「さすがにその道の権威があまりに見当外れではまずいだろう」と考える抑止力が働く。しかしそうではない「賞」は「メッキの金メダル」とさして変わらぬ価値しかもはや持たなくなりつつある。
「賞ビジネス」の底辺ではもはや「経済的なもくろみ」しか見えない残念な世界が現出しており、心ある人ほど「賞」のいかがわしさから離れて「自らの判断」という青い、しかし広汎すぎて判断の難しい、だが透明で美しい「海」へ飛び込むことになる。
そもそも「賞」がそうしたいかがわしい「操作」の可能性を昔からもっていたものであることは事実で、端的に言えば「仕官の御前試合で秋山小兵衛が負ける」ようなこともあったのだろう、と思う。しかし、そこには「見極めようとする他社の強い視線」が同時に存在していて「いんちき試合」をするのにも(秋山小兵衛ばりの)相当な技量が必要だったし、判断する側にもそれなりの
それでもなお、グルメやらお笑いやら(まあ、どちらでもいいといえばどちらでもいい世界ではあるが)文芸や映像や、そうした世界を侵食しつつある。いずれにしろそうした世界は「趣味」の世界であり、「大勢に影響はない」世界なのであるが政治・経済・社会などに「そうしたいかがわしい判断基準」が浸潤しつつある。
端的に言えば選挙などは一種の「賞」なのかもしれない。地域紛争でもビジネスの闘いでもそれを「賞」と見なせば「そこに群がるいかがわしい判断基準を滔々と述べる人々に対する厳しい視線」が求められる筈が逆に「判断基準を与えてくれる」憧れの視線に劣化しかねない。
結局「賞」というのは畢竟、様々な選択肢を判断しきれない人々が「
どんなものでも、何かを「良い」と人に勧めるにはそれなりの根拠と共に進める側の責任が生じる。そんなものがない「お勧め」など何の意味もない。何らかの経済的対価を受け取って勧める価値を感じていない「お勧め」するのは実は詐欺的行為に他ならない。
詐欺ではない。詐欺的行為である。詐欺と詐欺的行為の差は「貧乏」と「貧乏くさい」の差と似ている。「貧乏」は現実だが、「貧乏くさい」は心の有り様である。詐欺的行為は心の有り様であることが余計に社会を侵食する原因かもしれない。ならば使ってもいない商品を芸能人が勧めるのはどうなの?という疑問も生まれてくるだろう。
その通りである。前にも書いたとおり、「違法から合法へのスペクトラムの中に似た構造が見え隠れするのが現代という時代の特徴」なのだ。そのことを理解しないままでいる人間は、今の世の中では「違法性(に限りなく近い詐欺的行為)」が法規や条例によって社会的制裁にかかるということが担保されないまま「騙される側にならざるをえない」そういう構造になりつつあるのである。それを「最近はうっかりしていると騙されかねない」というような民衆的心情でやり過ごして良いのか甚だ疑問であり、それを放置することによって「犯罪者が生まれる構造」を野放しにしているのではないかという懸念はますます高まっているのだ。僕らは「無心で」「本来使ってもいない商品を平気でにこにこしながら勧める芸能人」を冷徹に排除しなければいけない時代に住んでいるのかもしれない。なぜかというとそれを放置することで「世の中はますます濁っていくから」で「それを放置する側の責任」も生じるからである。うん、残念で面倒くさい世の中なのである。その上SNSでお勧めする一般人が出てきたおかげで今の世の中は一億(数千万)に人間が無意識に、無責任に騙す側と騙される側の取っ組み合いをしているような世界になりつつあるのである。
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