第17話 死刑制度

 死刑を撤廃せよ、という声は未だ世上せじょうに高い。

 世界的に言えばアネムスティは従来から死刑制度の撤廃を訴えてきたし、国内でも弁護士会を中心に死刑の廃止を訴えている。死刑を存置そんちしている国家は数少ないだけではなく、死刑を存置している国家の大半は死刑を政治犯に対して執行するような国家である。北朝鮮・中国・イスラム教が多数派の国家(イランやサウディアラビアなど)アフリカの一部国家などがそれに該当する。

 つまり死刑を残している国はおおかた専制的で政治的に偏ったどちらかというと未熟な国家である傾向があり、逆に言えばそう言う国家に死刑制度が残っているからこそ、死刑を撤廃するべきだという意見が出るともいえる。もしかするとそんな国はなくなって欲しいという願望が死刑の撤廃という主張に繋がっているのかもしれない。確かに・・・政敵を死刑にするというような「中世」国家は早く滅亡した方が世界のためになる、というのは合理であろう。

 ヨーロッパで唯一死刑を存置している国家がベラルーシである事はその意味で象徴的である。ロシアは死刑を凍結しているが、政府が政敵を暗殺している可能性が極めて高く、そもそも法治国家としてといえるかどうかが怪しい。国家転覆罪こっかてんぷくざいなどという名目で少数意見を排除するような愚かな歴史は未だに近隣国家でも存在するし、それを隠すためにそれ以外の犯罪にも死刑を科すことで目眩めくらましをしている可能性さえある。


 そんな中でアメリカと日本は民主主義国家と言われるカテゴリーの国家群で死刑を存置している珍しい国家である。だが僕はそれもあり、だと思っている。

 

 そもそも死刑を廃止すべきだという論拠はなんで有ろうか?さまざまな理由があると思われる(し、同じくらい死刑を廃止すべきでないという論拠もあるのだろうと思われる)代表的なアムネスティの意見を引用してみよう。

「アムネスティ・インターナショナルが「死刑」に反対するのは、「死刑」という刑罰が、この「生きる権利」を侵害するものであり、残虐かつ非人道的で品位を傷つける刑罰であると考えるからです。」

(アムネスティ インターナショナル ジャパンのHPから引用)

 極刑である死刑が残虐で非人道的であることは間違いないだろうが、「残虐で非人道的な」犯罪も存在することは事実である。なぜ一方のみが非人道的と決めつけられるのであろうか?ここらへんが死刑の廃止に伴う感情的な論争を招く理由であろう。

 それ以外にも教育的・道徳的な観点「人は善くなれる」、宗教的な理由「殺すなかれ」など様々な理由が死刑を廃止する理由に挙げられるし、それを否定するつもりはない。それに加え、冤罪えんざいの可能性(特に死刑は執行されると回復の余地がない)の理由が挙げられているがこれは副次的な理由であろう。というのはこの論拠では、もし冤罪の可能性が全くない犯罪になら死刑を適用する事は可能になるからである。

 

 ではそれほど、「人の命」は大切なのであろうか?これこそが究極の問いである。そもそも「人の命」に限りが有ることは周知の事実であり、「人の生命は地球より重い」という言葉に政治のパフォーマンス的な匂いがある事は周知の事実である。それならばなぜ、「限りがあり、歴史的にもだいぶ粗末に扱われてきた人の命をそれほどまでに高尚なものと定義して、死刑まで廃止しなければいけない」と考えるのであろうか?

 答えは単純である。何かのラチェットを掛けないと「人は人を殺す」からであり、それは報復という経路を通じて永遠に連鎖しかねないからである。歴史的にみても、部族間、種族間、国家間、宗教間でどれほどの殺戮さつりくが行われてきたであろうか?人を殺し、その報復として反撃して殺す、そんな歴史は何処の国の歴史にも綴られている。そして文明を手にした人類はそれをなんとかやめさせるために、政治的・宗教的・法的に「人を殺してはならない」と何度も歯止めを掛けてきたのである。それは社会を維持するために必要な行為だったのだ。

 そうして法治が育まれつつあった国家でもなお死刑という刑罰は存置された。死には死を以てあがなうべきだというハンムラビ法典的な原理、死刑というメカニズムが国家の統治に不可欠であったという事情、さまざまなものがあったのだろう。だが、今でこそ涼しい顔をしている欧州でもBloddy Mary、メディチ家などに代表される政敵の暗殺という暗い歴史があって、政敵を殺すために死刑が濫用らんようされたという事実が死刑に対する忌避きひを強めたことは疑いなく、そこには民主主義的感情も十分含まれているのだ。

 しかし、だから死刑を廃するというのが正しいかというとそれほど単純な物ではないと思える。「人が人を殺す」という連鎖を止めるために「人を殺してはならない」という歯止めが結果的に「犯罪者」の利益になって良いのか?という事は常に念頭に置いて議論しなければいけない。

 アムネスティに代表される主張は、もちろん、この状況を踏まえてなされているのだろうけど、聞き手は「それをまるごと情緒的に飲み込んで」賛成するような事であってはならない。その上で、アムネスティの意見に賛同する人がいたとしてそれに反対する気持ちは、僕にはない。

 もっとも僕自身は賛同しかねる部分はある。

 「人は人を殺してはいけない」というのは道義的にも社会を維持するためにも歴史的に必要な主張であった。それほどに人は人と争い、人を殺してきた。しかし、そのルールが本質的な犯罪者に無制限に援用されればそれは道義的にも、社会を維持するためにも良くない、と僕は考えている。

 「人の命」へ現実的に軽いからこそ、僕らはかなり踏み込んで「人の命」を尊重する必要があるが。「人の命」を軽んずる人間にそれを援用することによって、むしろ「人の命」を軽んずる結果になってしまうことの危うさを僕らは知るべきである。

 死刑を無原則に推奨しているわけでもない。死刑というのは究極の刑である。やたらむやみに「死刑」というのでは天才バカボンの本官さんとさして変わらない。

 だが、死刑というのを廃止すべきだ、それが民主主義だというのが歴史的に正しいという風にも思えない。

 死刑を存置している中世的「国家」はまず先進国にならねばならない。死刑を社会のためにではなく、国家のためという理屈を振り回して存置する「国家」は退場すべきである。

 一方で民主主義的な国家において「犯罪は社会の歪みで起こる物で、人間性は常に善である」という偏った見地から全てを見てはいけない。社会の中で犯罪という物も変化する。ジャンバルジャンのような「教育による」「矯正可能」な犯罪者が「犯罪的国家や政治」によって生み出された時代が既に終わっている社会でも犯罪は絶えないのである。

 そこにおける犯罪の少なくとも一部は「生活のため」に「仕方なく」なされる犯罪ではなく、「殺すことに躊躇いを覚えない」「楽しみのため」の「何の脈絡もない」「だが死刑になることもないだろうという事を基礎とした」犯罪である事もいくらでもある。残念ながら人間というのはそうしたものである。そうしたものでないという主張をするなら、自らそれを証明して欲しい。無責任な感情で犯罪者が再犯を犯しても知らぬ存ぜぬを主張することは死刑の濫用と同様に許されない。

 政治や社会の有り様によってそこで適用される社会的制裁は区別されるべきである、と僕は考える。そこに一律の解はないのだ。

 だから、今こそ日本の司法は難しい立場に置かれている。二人殺したら死刑、とかそう言った公式ではない判断が求められる時代なのである。残念ながら議論はそういう形に熟していかず、未だに死刑の存続に当てられている。少なくとも僕が大学で学び始めた50年前と、そこは何も進歩しているように思えない。



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