第15話 政治の衰退

 「民主主義」・・・いや「近代民主主義」という現代政治の根幹を成す思想が成立して、まだ300年も経っていない。ギリシャ時代の民主主義を強ち否定するものではないが、それは近代の民主主義のように「出自、性別などを問わない平等な権利」を前提とした民主主義ではない。平等な民という根源的な思想(民の定義は違うが)を別として、近代民主主義とは独裁制・王制を打倒した結果として出現した「新たな政治形態」として捉えるべきであろう。

 そして・・・果たしてその民主主義が人類の辿り着くべき最良の政治形態なのか、そうでないのかについても未だに結論が出ていない。それどころか昨今の状況を鑑みるに民主主義は、或いはその本源的な特徴として「劣化を避け得ない」政治形態なのかも知れない、とさえ思えるこの頃である。とは言え、政治的後進国の独裁国家への先祖帰りが継がれるべき政治形態などと考えてはならない。日本の近辺にも政治的抑圧を行ってはばからない愚かしい国家が幾つかある。彼らの説く正当性などはその「国家の愚かな政治家がいかに愚かであるかのいいわけ」に過ぎないのであり、それを支持している一部の国民とともに早急に舞台から姿を消すべき存在であり、まだましな「新たな政治形態」にとって変わられるべき存在である。だが・・・そうした国家において抑圧されたきた国民にとって「希望の星であった筈の民主主義」の劣化は彼らの希望を消すことにも繋がりかねない。

 例えばアメリカでも民主主義を否定するような行動を取る大統領が現れた。日本に於いてもそうした先祖帰りを志向する人々は増えてきた。彼らは自由とか民主とかというものとは全くかけ離れた価値観を持った「どちらかというと日本の周辺国家に近い思想」を持った人々であり究極的にはそうした旧態依然の政治制度と戦う資格を持った人間でさえない。故に彼らは結局、自分の国ばかりか世界を絶望させる方向に進めるものでしかない。それは国家間の争いを別として政治の基本的な姿勢の問題である。


 そんな中で昨年、安倍元首相が殺害された。元首相が銃弾に倒れたのが選挙戦の最中だったこともあり、これを「民主主義に対する挑戦」であると自民党が喧伝けんでんしたのは選挙戦の最中であることからして至極もっともな、しかし愚行であった。そんなことをしなくてもあの選挙では自民党は勝利できたし、その「民主主義に対する挑戦」という建付けに疑問を持つ人は当然いるからである。

 とはいえ岸田現首相がそう発言するであろうことはおよそ予想がついた。その理由は彼は二流の政治家だからである。二流政治家ではあるが、この時代二流政治家というのは極めて貴重な存在である。ずっと三流以下の政治家が牛耳って来た日本の政界で二流というのは、もはや貴重な存在なのだ。

 それにしても民主主義への挑戦というなら①そもそも選挙のために少なくとも一時は反社会的とされた組織にビデオメッセージを贈るような政治が民主主義であっていいのか②東京選挙区で見られたあの自民党のおちゃらけた候補者選びで当選者を出すというのは民主主義というより衆愚政治ではないのか(一人の議員は選挙番組への出演を無能力ゆえに辞退したと言うが、そもそも選挙番組への出演は議員の権利ではなく義務である。馬鹿でも応えねばならないのである)の方がよほど民主主義への直接的な挑戦ではないのか、という疑問を最初にクリアしておくべきだったのだ。

 「民主主義への挑戦」という至極まともな、しかし使い古された言葉は空疎なばかりでなく、民主主義のまともでない、滑稽こっけいな側面をさらけ出したのであった。

 もちろん選挙期間中に応援演説で手薄にならざるをえない警備を狙って銃撃するというのは明白な犯罪行為である。しかし、その実態は民主主義への挑戦と言うより宗教に対する恨みである。その恨みが「その宗教団体を支持した」と認識、ないしは誤認された政治家のトップに向かった。だからあれはテロではなく単なる殺人である。安倍元首相が統一教会という組織に近い存在と認識されたのはとばっちりの側面がないとは言えないが、そもそも安倍元首相の世代であれば、原理研というあの時代、どの大学にもあったサークルとして怪しい存在の元締めである統一教会は「信教の自由を名目として守るべき存在」どころか、政治家として関わってはいけない怪しげな組織であることは明らかであった。どんなに宗教側がその後の改編によって「組織は別」と主張しても、頭隠して尻隠さずのようなあからさまな「関係性」の存在を否定するのは噴飯物である。

 「信教の自由」を盾に宗教が己の保護を求めて政治に接近するのを拒絶できるのは政治側だけであり、それができない政治家は本質的に「政治家の資格はない」のであることを「政治家を選ぶ側」は認識しなければならず、亡くなった安倍元首相には気の毒な話であるが、僕らはこの問題の本質を正しく認識しなければならない。犯罪は犯罪として裁くべきである。だがこの犯罪の背景には政治の劣化が色濃く滲んでいる。票さえ貰えるなら怪しい宗教団体にも媚びを売り、当選さえすれば自分は国民の代表だと思い上がる政治家が多すぎるのだ。安倍元首相がそうした政治家だったのかは知らないが、そうした政治家を抱えた政党や派閥の領袖であったことは否定しきれないように思える。

 日本の政治に於いては最近顕著に見られる民主主義の劣化は選挙制度の変更、即ち小選挙区制度と比例代表制の適用によって急速に進んだと思われる。比例代表制というのは本来、有権者が適切だと判断したわけではない候補者が議員となる余地を作り(従って、そうした議員はその素性を持って常に批判に晒されるのだが)、小選挙区制というのは「その地域の極めて少数の有権者によって国の代表となってしまう」という状態を作った。確かに英国でも小選挙区制度というのは存在するが、日本のように「地盤、看板、かばん」と揶揄される選挙の実態において「小選挙区」は望ましい選挙制度とはほど遠い。こうした「民主主義のもどき化」は既存政治家の制度の悪用によって加速しているのだ。オルテガは「デモクラシーが健全かどうかは、ひとえに些末な技術的細部である選挙制度にかかっている」と「大衆の反逆」で述べている。(「大衆の反逆」岩波文庫 オルテガ イ ガセット著 佐々木孝訳)まさに日本の政治の劣化はそれを表しているのである。残念ながらそうした出来損ないの選挙制度であることが明らかになっても選挙制度が改善される望みは小さいのかも知れない。なぜならば、全ての政治家はそうした出来損ないの選挙制度で当選した政治家だからである。

 「民主主義で選ばれたのだから」という口上はますます価値を失い怪しげなものになっているのだ。民主主義が根源にもっている「劣化を避け得ない」かもしれない可能性は、政治家の勝手な振る舞いとそれを許した有権者によって世界中で加速的に起こる可能性のある事象であり、日本では既にその劣化がかなり進んでいるのではないかと推定される。我々は民主主義の上に胡座あぐらをかいてはいけないのである。民主主義によって選ばれた政治家は残念ながら己の権益のために民主主義を改悪するような輩であったのかも知れないと認識し、それを修正する正義と力と能力を持った政治を実現しなければどんどんと政治は悪化し、民主主義は形骸化する。

 アテナイは滅びた。それと同じ事は起きるのだ。民主主義に対する挑戦は退けなければならないが、民主主義の欠陥は選挙によって当選人に無条件の正当性を与えてしまった、或いはそう勘違いさせたという点にある。


 この数十年間、はgoverning partyの如何を問わず政治の劣化によって日本は迷走してきた。つまり二大政党制を目指して小選挙区制を取り入れたことは日本の弱体化に繋がった。

 それどころか、最近は「国民の代表」である事を振りかざして従来、まともな政治家が行わなかった行政への無分別な介入が頻繁に起きている。省庁のみならず、金融・放送・独立した言論機関などに触手を伸ばしやり放題の政治を行ってきたつけは国民に回されざるを得ない。「一般的に政治家は、有名人を含めて、その愚かさ故に政治家だからだ」と前述のオルテガ イ ガセットは素っ破抜いた。その理由は対象である政治そのものが錯綜し、明晰でないためであるが、そうした中で自分の位置を明確に把握し「現実の輪郭」を把握できる人間は稀にしか存在しないという彼の指摘は的を射ている。

 残念ながら、そうした事を出来たとオルテガが述べたテミストクレスもカエサルもいないこの時代、せめて三流以下の政治家ではない政治を求めていくしかないのである。その担い手が誰であるのかは今のところ判然としないが、自らを律することの出来ない政治家にそんな理想を求めることなど出来るはずがない。そしてそんな政治家を支持する国民こそ国家を滅ぼす獅子身中の虫なのであろう事を僕らは自覚しなければならないのである。

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