第13話 「自己責任」の病巣
最近、
一つは経済的な使われ方、即ち経済的に苦境に陥った、ないしは苦境にある人に対して放たれる自己責任論であり、歴史的にはどうやらこちらが最初の使われ方である。もう一つは社会的・政治的な行動に対して使われる場合である。例えば、戦地に赴いたジャーナリストが
確かに「自己責任」と言う言葉を使った方が適切だという状況があることは認めなければいけない。どこぞのボンクラが嵐の日に山へ登ったとして遭難したような状況、バックヤードスキーヤーがスキー場を離れた場所で迷い込んだようなケースである。その人を助けるために社会は相応のコストを掛け、救助隊を組まねばならないだろうし、それによって「助けるために命を落とす」人が出てくるような状況さえ生まれるであろう。個人が自分の欲望に従って、ルールに反した無謀な行動を取り、その結果多大な迷惑を社会や周りの人間に掛けるとき、そこには「自己責任」というワードが登場する。その場合は費用負担や犠牲が発生したケースのコストを云々する状況が出現しても仕方ないであろう。
とはいえ、世の中というのはほぼほぼ「自己責任」で回っているのが現状であり、どんな行動の因果に関しても殆どの場合「個人が背負う」仕組みになっている。
勉強をせずに試験に臨めば落第するのは「個人の責任」であり、金を使いすぎて食う物がなければそれも「個人の責任」であり、そう言う意味ではみな「自己責任」を背負って人生を暮らしている。遭難の場合などルールを破って社会に迷惑を掛けた場合には基本的に個人が負担を行うという形も(少なくとも形式的には)存在しているのだ。しかしそうした背景があるにも拘わらず、事があるたびにことさらに自己責任を言いつのるのには必ず背後に思惑というものがある。
人に対して「自己責任」だと突き放したような発言が出る場合、その多くは1)自らはその苦境から逃れることが出来たものが弱者に対して傲慢な態度で発言する場合(特に経済的弱者に対して使われる)と2)例えば危険な地域にジャーナリストやヴォランティアが行ってその生命が脅かされた場合に救済される時、そのコストが「国家によって負担される」→「本来なら別の用途、自分を含めた国民の福祉に使われるべき」→「その税金は自分が負担している」、けしからん(ないしは羨ましい)という妙に短絡的なルートを通って「自己責任」という未熟な言葉を
1)のケースについては二つの流れがある。
そもそもの起源は「金融商品の売買に於いて市場より有利な利率を謳った商品に騙された」際、その商品を購入した人間に対して使われた「自己責任」である。
まず前提として、人間が経済的動物である限りに於いて、経済的に有利な商品を求めるという事そのものを批判するのはどうか、という問題がある。これは人間論であり、そもそも人間は「経済的動物ではない、あるいはそうであるべきではない」と考える人間が、そうした経済的行動を批判するならば成立するとしても構わないだろう。
しかし、どうもこのケースで使われる「自己責任」という言葉には「儲けようとして失敗した人間に対する軽蔑」というニュアンスが色濃くあって、それは倫理的な立場から発言しているというより同じような事を考えている人間が失敗した人間に対する蔑視の言葉であるように感じる。そもそもそういう目に遭って損をした人間は損をした時点で「自己責任」に晒されているわけで、その上他人から「ざまあみろ」という「自己責任」を
もう一つの「自己責任論」は理由はどうであれ、経済的苦境にあるのは本人の努力が足りないせいであり、社会的給付を受けるのは控えるべきだというような論調である。生活保護や何らかの給付が話題になるたびに一定の批判が「自己責任」という言葉と共に語られる。その思考の根底には「特定の個人に経済的苦境を
ゼロサム的思考というのは往々にして貧乏くさい発想である。つまり何かを分け合うときに人がその分利益を得れば、即刻自分の損になるという発想がその根底に染みついているからである。残念ながら世の中の殆どの人は貧乏くさい発想しか出来ないものであり、健全な発想を育むべき人はそんな固定観念に付き合っても致し方ない。つまりこの場合殆どのケースに於いて、自己責任論を言い立てる人間は貧乏くさい類いなのでまともに取り合う必要はないのである。
2)のケースに関しては後述したいが、こうしたケースは社会的に反響の大きい政治・経済がらみであるケースが多い。先に挙げたジャーナリストの取材中に誘拐されたケース、或いは中国などで経済的活動をしていたのが「政治的」と捉えられて収監されるケースなどである。こうしたケースにおいては国家が解放に関わらざるを得なくなる。勢い政治家や官僚が登場することになる。こう言うケースでは国家や政治家の本音や真の姿というのが明らかになる。ポイントは殆どの場合、報道や言論、政治的立場における「自由」の価値をどう捉えているかで決まる。自国民が取材中ないし、経済的活動において侵害を受けた場合、国家は原則条件なしに「闘う」必要があり、それが「国家」のあるべき姿である。それにも関わらず政治家が「自己責任」を発言する場合はポピュリズム的発言であることは、だいたい「自己責任論」を言い立てた政治家の面子を見れば予想がつく範囲の物である。
とはいえ、実際に「自己責任」のケースもないとはいえない。考えなければいけないのは1)や2)のケースが「個人が自分の欲望に従って、無謀な行動を取り、その結果多大な迷惑を社会や周りの人間に掛け」ているような状況であるのかないのか、ともう一つの判断基準として、幾ら「良識的に説得してもその人間の
後者に関しては例えば「新興宗教とオレオレ詐欺」の被害者における「自己責任」の問題があって、実は「被害者」は経済的被害を受けたことによって既に「自己責任」を負っているのだが、より深刻なのはそれが「個人に止まらず周囲の人々」を巻き込んでしまう場合があるからである。この場合、被害者であると同時に見方によっては加害者になってしまう場合もあるのだ。
となると、「自己責任」という言葉もケースに分けて論じる必要が出てくる。先ほどにも指摘したとおり、人は多くのケースにおいて「自己責任」において生きているわけであり、多くの場合行為の結果は個人が背負う。それに打ち
①まず、経済的に逼迫した人間に対して「自己責任」を言い立てる場合である。残念ながら「経済的成功」と「失敗」は必ず存在し、それは人間のある「特定の能力」に依存しているケースが大半である。その「特定の能力」とは「金を儲ける能力」である(ちなみに金を儲ける能力自体は否定されないが、その儲け方に問題があるケースも散見されるので一概に評価することはできない)
いずれにしろ、資本主義社会に於いては「金儲け」そのものを否定する事はできない。社会的ルール、法律に従って金儲けをすることは資本主義社会の正当な行為である。ただし、だからといってそれに成功した人間が経済的に逼迫した人間に対し「自己責任」を言い立てる権利はない。経済的なセーフティネットを含めて資本主義社会というのはルールを課している。もしもそれを外したら「強欲的資本主義」というレッテルを社会が貼られることになる。世の中には「セーフティネット」にフリーライドしようとする人間が一定数いる。例えば資格がないのに生活保護を受けようなどと企む輩である。しかし、そうしたルールの前提は「そういう人間を力尽くで排除しても」経済弱者に対するセーフティネットを支えるのが本質であり、セーフティネットをなくすのが正しい処方ではない。だからそうした例を挙げて自己責任を
②次に論じるべき対象は「危険な場所に取材に赴いた結果、そこで囚われたり、出国不能になった人間」に対して発せられる「自己責任」という言葉である。まずこの定義の通りであった場合、その行動に対して「自己責任」を言い立てるのは全く適切ではない。ジャーナリズムにおいて「危険な場所で取材」する事は自己の危険を冒して事実を世間に知らせようとする正当な行為であり、
問題はそうした人間がジャーナリストであるかどうか、という「正統性」に疑念を指摘された場合である。世の中には何を持ってジャーナリストと呼ぶかの明白な基準はない。もちろん大手通信社、新聞、テレビなどの企業体の社員は「ジャーナリスト」であるが、ではそれ以外にジャーナリストがいないかというえばそうではない。先に述べた企業体に所属するジャーナリストは基本的にその企業体のリスク管理の範囲内に所属するため安全を守られる代わりにリスクを取って仕事をすることが難しくなる。外務省の危険情報がでて、外務省の職員が退避するような状況になってもその地に止まる大手通信社、新聞、テレビのスタッフは原則存在しない。そうしたリスクの狭間に個人のジャーナリストが存在するのは良くある事である。こうした存在を大手の通信社や新聞社が何らかのかたち(随時契約)などで救えるようにしておけば良いのだが、日本に於いては会社側も個人ジャーナリストの方に於いてもそうした形式を取ることは少ないようだ。そうした環境の中で、紛争地にジャーナリストが取り残されたり、或いは紛争地にジャーナリストが赴いた場合、そこに「自己責任」という言葉が現れる。
その上そうしたジャーナリストは往々にして政治的オピニオンを明確にしていることが多く、反対の立場を取るグループからは
ましてや経済的活動において囚われた場合、断固としてその根拠を示し、示さなければ国交を断絶するくらいの気構えが必要になる。通常、そうした行為があった場合、相手国はその根拠を示した上で、国外追放をするのが常套であるにも関わらず、根拠を一切示さずに相手国の国内法で政治的犯罪と断罪するなどもってのほかであり、これを許していたら国家の尊厳に関わると思うのだが。ましてやそれを「自己責任」という言葉で処理するのは全く適正ではない。
では、新興宗教にのめりこんだりオレオレ詐欺に引っかかった場合などはどうであろうか?これほど新興宗教の反社会的行為(もちろん全ての新興宗教がそうだというわけではないが)、オレオレ詐欺の横行が社会的に喧伝されているにも拘わらず、それに引っかかって家族まで巻き込んで不幸にするという行為は「自己責任」ではないのか?どんなに止めても宗教にのめり込む心情、あまりにも容易に詐欺に騙されてしまう単純さ・・・それを幾ら憎んでも、本来憎むべきはやはりそうした行為を齎す元凶であるべき、というのが社会としては正しい結論であるはずだ。
もちろん、それに巻き込まれた家族にとっては巻き込んだ当人に対する批判の気持ちはあるだろうが、社会はそれを批判すべきではない。そもそも被害者でもない社会が犯罪に巻き込まれた人間を非難するどんな根拠があるのだろう?それを非難するのはどちらかと言えば騙された人間に対する嘲りや軽侮というマイナスの感情でしかないのだ。それを自覚しないまま「自己責任」を言い立てるのはやはり浅ましいとしか言いようのない行為である。
だから、「自己責任」をやたらと口にするのは自重すべきである。僕らはただでさえ自己責任を背負って生活しているのだ。そんな人たちに向かって「自己責任」を軽率に囃し立てる人たちが軽蔑されるのは仕方ない・・・それは・・・つまり「自己責任」です。
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