第12話 マナーの氾濫

 駅や商店街・公園などに限らず人が集まるところにはマナーという文字が氾濫している。「xxはマナーです」「xxをする事はマナー違反です」「マナーを守ってxxをしましょう」そんな字句を抱えたポスターや張り紙がそこら中に溢れている。マナーを訴えた貼り紙のあるその脇の歩道をスマホを見ながら自転車が歩行者を気にする様子もなく猛スピードで走り去っていく。こうした異様な風景の中に、「そもそも法も条例も守っていない人がマナーを守れるのか」、という問題と「一体マナーを誰が何の根拠で主張しているのか」という二つの問題が垣間かいま見える。日本に入ってきて歴史の長いのに、マナーと言う言葉はそのまま日本語に訳されずに使われてきた。行儀・礼儀・礼節、そのいずれもがマナーという言葉とどこかずれた意味合いを持っている。

 だからなのか、或いは違う理由なのか、依然として一匹の妖怪が日本を徘徊している。

 マナーという名の妖怪が。


 俗説ではマナーのような慣習がやがて法として社会の規範になっていったという(慣習法)説があるが、成り立ちはともかく現実には慣習と法の間に厳然とした違いがある。

 慣習が法に転化するにはそこに一定の「正しさ」とユニバーサリティが必要なはずで、「マナーです」と唱え続ければ良いというわけではない。そしてマナーを主張する人々は自らを規範と主張しているのだが、そこにある根拠はせいぜい管理者としての主張でしかない。

 例えば「駅」で「・・・がマナー」だと主張するには二つのスクリーニングが必要である。一つはそれが法や条例に照らして、違法ではない行為である事(違法ならばそもそもマナーとすべきではなく違法とするべきである、例えば痴漢行為・暴力行為など)翻ってマナーであるという主張そのものが違法性を帯びていないことは絶対的条件である。

 もう一つはその範囲が自分の管理すべき領域、つまり駅の構内および電車の範囲内である事である。駅の中でのマナーの設定はある条件内で管理者の主張する根拠があるというだけである。そしてその主張が「正しさ」とユニバーサリティを持っているか、はそれが普遍的にマナーとして遵守すべき事かどうかに大きな関わりを持ってくる。

 「駅」という場所における具体的な話で言えば、いまや混乱の中にある「エスカレーターを歩く行為」である。そもそもエスカレーターの右側ないしは左側を空けて歩行者を通す、というマナーもどきはどのようにして発生したのか?一説には関西の電鉄会社で混乱を避けるために左側を空けて(関西では左側を空けるのが一般的らしい)通したのが始まりらしい。だが、すでによく知られているとおりエスカレーターはそもそも歩いて昇降するように作られておらず、そもそも危険である。(ちなみにこのエレベーターの片側空けは日本だけの話ではなくロンドンの地下鉄トッテナムコートの長いエレベーターでも片側はあいていた覚えがある)

 それが国際的に慣習になろうと、そもそも危険な行為は法に転化すべきではないし、そもそもエレベーターの片側を少数の者のために空けておくというのは全体最適からすると明確に非合理的である。

 従ってエレベーターの片側を空けておくことは愚かしいだけではなく、危険な行為を容認しているわけでその危険な行為は違法性を帯びかねず、それを遵守する「マナー」は違法行為を認容しているだけではなく促進しているとも言われかねないのである。 

 また、駅で駅員に暴力を振るわないで欲しいというのはマナーの問題ではなく、例え相手が客であれ暴力という違法行為であり、それをマナーで解決しようとするのは間違えであるし、適切でもない。直ちに警察を呼ぶべきで、それを曖昧にしてはならない。

 マナーという言葉を使って誰かを動かそうとするなら、マナーの意味をよほど考えてから使うべきである。さもないとマナーは怪しく変化へんげし、その包含する圧力を持って人を突き動かそうとするいかがわしい言葉になりかねない。或いは違法行為をマナーというマイルドな言葉でくるむことによって、責任を曖昧にしてしまうことにもなりかねない。正直なところ、「マナー」の90%の使い方は誤ったものではないか、という疑いが残る。

その上、世の中にはマナー評論家という存在があって、あたかも法律家のような顔をしてマナーを説いている。僕の子供の頃は、洋食と共に皿に載せられた白飯を食べる時にはフォークの背に乗せるのがマナーだと言われていた。そんなはずはない。そもそも白飯を洋食で皿に盛って食べることはないのだ。だが、そのマナー(或いは常識という名の非常識)はもったいぶった顔をしてしばらくの間、日本のレストランと台所でマナーの皮を被っていた。そんなインチキを未だに説こうとしているのだろうか?

 確かにヨーロッパには儀礼上、欠かすことの出来ないルールというのは存在する。このルールは社会の上流に行けば行くほど形式化し、綿密になる。だがその根底には排除の理論があることは否めない。つまりそうした際のマナーというのは「こんなマナーを知らない」人間は「私たちの形成する小集団」にとって「いるべきではない」排除されるべき人間である、ということを目的とした「尺度」なのである。こうしたマナーの形成は洋の東西を問わずに存在し日本にも有職故実とかいうものがあって、その礎は平安時代の小野宮流と九条流に求められる。

 武士社会の形成という社会の中で、没落しつつあった貴族の中、藤原氏とその傍流が「野蛮な武士」を「貴族、そしてその頂点を形成する天皇家」に近づけまいとする方策として有識故実を作り上げていった、というと単純化しすぎであるがその側面は色濃くある。その結果として起こった悲劇はいくつもあるが、有名なところではあの忠臣蔵である。吉良上野介が、いいとか悪いとかではなく、あの事件の根源にはマナー(とされるもの)に対する根源的な対立があり、それをどう捉えるかで、吉良と浅野への対応が異なるわけで、江戸庶民と徳川綱吉が全く異なる見解であったのは当たり前のことだったのだ。そして同じような密かな悪意を込めたマナーはそれをネタに生活をしている人々によっていまだに広められている、そんな気がする。


 今、マナーという言葉は「何らかの(根拠はあるか別として)価値観を他人に共有させるもののツール」として使われる場合が非常に多い。マナー評論家が上から目線で「これがマナー」という事に対して、ひれ伏す人もいれば不快に感じる人も多いのは仕方ないことなのである。ではマナーというのは不要なのであろうか?僕はそう思ってはいない。とはいえマナーとは看板に「守りましょう」と書く類いのものではないし、他人を排除する目的のものではないと信じている。


 僕の信じるマナーとはマン(人間)の比較級である。manという英語はもちろん形容詞ではなく、人という名詞であるから比較級をとるはずがない、と人は言うであろう。しかし、マナーの神髄は「より人間的な行為」であり、それがmannerなのだ、そう僕は考えている。

 横断歩道の途中で、老人がのろのろと歩いて信号が点滅し始めたとき、その老人の手を取って渡してあげる、それはより人間的な行為ではないか?ゴミを手にしてそれを道に捨てようとしたとき、それが景観を損なうばかりではなく、自分以外の誰かにそれを集め捨てようとさせる、それを恥じて持ち帰ろうとする考え、それがマナーの基本ではないか?満員電車でイヤホンから音が漏れていると知ったなら、例えそれが自分の好きな音楽だとしても他人を苛つかせる事がある、そう想像できるのがより人間としてまともではないか?妊婦や老人が電車で立っていたら譲る、それがより人間的な行為ではないのだろうか?そうして、人を思いやる行為としての集積が暗黙のマナーではないだろうか?

 声高にマナーを語り、人に自分の考えを押しつけ、誰かを排除するためにマナーを使うのは正しいマナーではない。

 自分の行為がより人間的なものなのか内面で問い続け、より人間的な行為を自然にできる人こそ、静かにマナーを実践し、我が身を以てマナーを語ることが出来るのだ、そう僕は思っている。




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