第11話 大学制度はいかにあるべきか?

 日本における「大学全入」というくだらない目標はどうやら達成されつつあり、ご同慶の念に堪えないがその目標が一体国家や社会のためになったのか全く理解できない。

 正直言って、大学生の増加と反比例するかのように国力は低下し、頂点や平均点の学力は相対的に低下し、日本の大学の価値や機能は低下し、「大学全入」という目標は何の貢献ももたらさなかったというのが現実である。

 ただ大学と言う名の機能不全としか思えない教育機関を運営している一部の人々が助成金やらなんやらで儲かり、与党の文教族と呼ばれる輩が懐を肥やしたとしか思えない。以前は建設族というものが無駄な道路や構造物を建て批判を浴びたものだが、それを教育というソフトウェアなら批判を浴びないだろうと文教族と呼ばれる輩を中心に節操のない転換をした結果、無駄な建設より更にたちの悪い禍根を国家・社会にもたらしたとしか言い様のないざまである。

 結局日本における大学の価値は「全入ができる」小学校並みに下落し、「全入」出来る大学のトップである東京大学は世界での順位は35位、北京大学、清華大学はもとより香港大学の後塵を拝する状況であり、おそらくその地位は更に低下していくであろう。その更に遙か下にある到底大学とは思えないような低レベルの教育機関をいくら作っても誰も利口にならない。

 端的に言って大学生の比率は全人口の10%程度で良い、と僕は考えている。今の大学はサラリーマンとスケーラビリティに乏しい起業家の養成機関に堕している。ならば高等教育のリソースは10%の高等教育に集中的に投入し、残りの90%には実務教育を注ぐ方がよほど効率的である。少なくとも今の日本の教育のリソースでは10%に集中したとしても世界で一流の教育機関を作れるのかどうか、心許ない。逆に今のままでは後進国に仲間入りである。既に様々な項目で後進国の仲間入りしつつある日本がその国力の根幹である教育で後塵を拝せば、加速度的に国の弱体化を招くであろう。

 だからといって残りの90%の教育をおざなりにして良いとは思っていない。問題は今の大学のあり方であり、教育の内容である。もしもサラリーマンや起業家を養成するならそれに見合った教育を行うべきであり、大学はそうした機関ではなく高度な研究や学問に集中するべきだ。今の大学は単なる「錬金術時代の坩堝るつぼ」であり、そこからは何も生まれてこない。大学は研究・学問に集中し、同時に公的機関のスタッフの養成機関として無償にする代わりに卒業後一定期間は公的サービスに従事することとし、それ以外は今の高等専門学校の様式を活用し、企業のファンドをベースとして卒業生は私的な機関に従事することとすればよい。今のままで大学を無償にするなど滑稽としか言いようのない政策である。

 その際大学は基本的に全て国公立にして構わない、と僕は考えている。僕は一応、名の知られた私立の大学を卒業しているが、乱立する私学を抑制するためになら、もはや実力を持っていようとや歴史的であろうと私立の大学を認めないとしても仕方ないと思っている。なぜ新規の私立の大学を敵視するかというと、そこにこそ今の教育の欠陥が露わにでているから、と答えるしかない。大学の四年間をきちんと学びに費やしている大学生が全くいないとは言わないが、現状では国立を含めそのような学生は一握りしかいないことはまず確実である。それを助長しているのが新規私立大学である。大学に不可欠な専門的学びを行っていないにも関わらずそれでも殆どの大学生は卒業できる。そう言う仕組みになったのは大学がとっくの昔に「会社に人材を供給する機関」になったからで、そのくせ教育内容はそれに見合ったものになっていないためで、いったん大学を頂点とした教育制度の見直しと、再建した後のpost大学・高等専門学校のあり方をもう一度見直さないととても世界に伍していけないと痛切に思う。


 日本の教育の低下の一面が端的に露呈したのが円周率議論であった。円周率が3.14か3なのかという問題ではない。円周率が「無理数」であるという事、その概念こそが円周率を学ぶ意味なのである。もちろん、実務的にはそれは3に近い数字であり、それを知ることの実務的な重要性は別に存在する。

 高等教育とは概念を学ぶことである。概念は深まれば深まるほど複雑に錯綜していき、新しい世界を人々の目に映してくれる。地動説は天動説に取って代わり、以前はその中心であったはずの太陽さえ宇宙の片隅の恒星の一つに過ぎないことが分る。だが、全ての人間にそのプロセスは必要ない。世の中に無理数と言うものがあり、円周は直径の約3倍であることをしっていれば、困らない人は確かに世の中の大半である。そこに大学は必要ない。哲学、政治学などの文系に関しても殆どのケースは「行動科学とその援用」を知っていれば実務に困ることはない、いや寧ろ概念より行動科学的な発送が出来ることこそ社会活動に貢献できるであろう。

 生物学・地学・物理学・化学・数学などの理系も原則、観察実験の世界でありそれを担うのは大学であり、その一部を応用するのは企業である。そうした応用技術が新たな知見を生じることを想定して大学と構造的に結びつけることが出来る仕組みは必要だし、大学で行われる研究が企業に使われることも必要だが、それは大学生をめくら滅法に増やしても実現できない。

 今の大学生は4年という期間を知的には無為に過ごしている。知的なものが大学生活の全てではないが、そうした残余は別に「大学」制度の中でなくても充たすことが出来るはずであるし、その方がよほど望ましい。出来の悪い大学生をいくら増やしても何の意味もなく、その価値を貶めるだけである。文部科学省も、大学の新設によって職員のポストを確保するなどと言うさもしい省益を廃して真面目に取り組んでほしいものだ。

 様々な資格や就職のthresholdに「大学卒業程度」の知識が必要であるとされているが、それこそ何の意味もない。今の大学のあり方ではできの良い中学生や高校生にも負けるレベルの大学生が山ほどいるわけである。このままでは「悪貨は良貨を駆逐する」グリシャムの法則に負ける社会になるし、そもそも社会は「悪貨」を作ってはいけないのである。

 もちろん仕組みを常に見直すことでそのままでは悪貨になりかねない人間を良貨にすることもできるし、その時点ではqualifyされていない人間が歳を重ね良貨にすることも出来る。また大学に入ったからと言ってその後の学びについていけなければ新たにスタートする事も出来るだろう。教育というのは「社会」を観じ、個人に「目を配り」その上で更に「社会」を観じる作業である。今の文部科学省にそれはできているのであろうか?

 大学全入と言う目標を果たしたにも関わらず、日本人の教育によるenlightmentは相対的に世界の後塵を拝している、その事態に政治家・行政は猛省をして貰いたい。その上で新しく、成長性と実効性を伴った教育制度の見直しをして貰いたい物である。

 かつて獣医学部の新設やら変な小学校の土地とかで顰蹙を買った政権が挙句に文部科学省の事務次官を言いがかりをつけて更迭したが、あれほど筋の悪い話を平然と行った総理大臣と当時の官房長官のような政治家がこの先、出てきて貰っては困るのである。そのためにも大学制度の見直しは必須である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る