第10話 Covit19

 疫病えきびょうはいつの時代に於いても社会を不安に陥れ、結果として政治の危機をもたらしてきた。中世の欧州におけるペストだけの話ではない。日本における持統朝における天然痘、第一次世界大戦時のスペイン風邪など時代の危機と隣り合わせに疫病は存在した。そして、Covit19も中国による台湾海峡危機、ウクライナにおけるロシアの侵攻と隣り合わせにある。


 Covit19の流行が始まって、丸三年以上の年月が過ぎ、つい最近漸く社会的制限が緩和された。しかしその間、いわゆる「コロナ疲れ」が台頭するたびに各地で制限が緩和され、そして再流行が起きると制限が強化されるという繰り返しが起き、「医療崩壊」がそのたびに論議され、結局良く理由も分らないままなし崩しになっていく。まあ、振り返るまでもなくそれしか解決法がなかったのだろうが、結局「何をやっているのか、よく分らない」まま、事態に任せて流れていく様相ようそうしか見えてこなかったのは事実である。しかし、この件に関して社会に対し「制限」をつけた各国政府の対応は理解せざるを得ない。それはCovit19の初期、最初の一年で起きた中国・北米・欧州での「医療崩壊に伴う大量死」の記憶が政府・医療関係者の記憶に鮮明に残っているであろうからである。

 それで「死ぬこと」のなかった大衆は取りあえず短絡的な視点で経済的・社会的に「自分に有利な方向」で無責任な発言しかしないが、もし、ウィルスが危険な方向に変異し、ばたばたと死人が出るような事態が現出したら、舌の根も乾かぬうちに批判側に回るのは明らかで、こうした無責任な集団がいる限りにおいて政府の対策に関する批判に多少の留保がかかるのは仕方のないところである。疫病は戦争と共に政治が個人の活動に制限を掛ける正当性を持つ数少ないクライシスだということを理解していない人々がこれほど多いと言うことに唖然あぜんとさせられる。


 しかしいくらグローバル化が進んだにしろ、もう少しコントロールできなかったものなのだろうか?カランティン(検疫)という言葉はもともと病原菌やウィルスが発症する可能性の有る40日間、国内に入れずに疫病の流行を阻むためのもので、諸外国から入り込む病気に対する対抗手段であった。しかしスピードが重視される時代、1月以上にわたって検疫状態にとどめ置くということは(猫や犬を除いては)相当困難になってきているのだろう。だが世の中のスピードがいくら速くなっても、ウィルスや菌の増殖の速さは変わらない。残念ながらわれわれが今回の疫病で分った唯一の確かなことは、

「もし、再び同じような疫病が発生したとしても世界は同じような混乱を起し、責任のなすりつけあいをするのだろう。そして経済と政治は打撃を受け場合によっては紛争が発生するだろう」

 と言うことである。


 まずこの件で一番問題だったのは初動、特に中国とWHOの初動の愚策ぐさくであった。このウィルスの発生源が人為的な発生であった場合は別として、自然のものであった場合、そうした起源は今のところ「家畜(鶏を始めとしたfowl、豚など)が多い地域」(中国の南部、東南アジア、南欧)「野生動物と人間が密接に接し、その野生動物の持つ病原体の情報・知識が欠如している地域」(アフリカや南米の一部)などになるケースが多いだろう。今後気候変動によって例えばツンドラ地帯が消滅した場合、もしかしたら新たな、ないしは凍土に閉じ込められていた古い病原体が再出現するかも知れない。

 しかしいずれにしろ、それは「地域」に責任があるわけではない。昔、スペイン風邪と呼ばれたH1N1型インフルエンザは現実的にはスペインが起源ではなく、スペインに持ち込まれたのはアメリカの基地からであったことは広く知られており、だから感染症に「地域名」を付けることはタブーとなった(スペイン風邪の源泉がアメリカであるということかも不明である)。この故事をならってか中国はCovit19の起源がアメリカであるとか、イタリアの方が感染は早かったとか、様々な事を言いだした。それは武漢にあるウィルス研究所が発生の起源ではないかと疑われたことに反応して撒き散らしたデマゴーグであるが、そもそも武漢にある研究所が発生起源という説自体も確かな情報でないので、その時点では中国を非難するいわれはない。

 しかし、中国の愚かさは、自分の責任を否定する余り、その病気の発生を放置し、あまつさえ春節と共に世界中にばらまき、その上「起源に関する調査」を国家的に妨害したことにある。この愚行が、世界を三年間翻弄した主要な要因の一つである事は疑いをいれない。そしてその愚行を阻止しなかったばかりでなく、助長したWHOは国際機関として失格である。それを未だに世界は是正していない。双方のトップである国家主席も事務局長もそのままとどまっている。つまり同じ事が起これば、同じ愚行が繰り返される、その確率は決して低くない。

 武漢にある研究所が発生起源である、という事は確認されていないがそれは0でもない。そしてそれが事実ではない、という否定する機会を中国は只管ひたすら単に「否定する」という行為によって自ら潰したわけで、自己満足に陥っていはいるが、事実としては中国という国家自体の危うさを更に世界に露呈した。万が一だとしても中国がこのウィルスを開発した可能性はある。そのような国家、そのような疑いを払拭できない国家に世界を率いる資格などあるはずもない。

 そしてその中国は今年の春節、最初のうちは「行動制限」を掛けようとしたのだが、民衆の暴徒化の懸念があると、いきなり方針を転換した。その行為の根拠は全く不明である。そのくせ各国が国境でも警戒態勢を取るとそれを非科学的だと言い出す。何を以て科学的と言っているのか皆目不明である。そうした行動の背景に「裏があるのでは?」と疑いを入れられるのは中国政府の行動様式に大きな問題と懸念があるからで、Covit19を経てその疑いは決定的に強まった。病原体の起源となり得る地域がこうした政体に支配されているという事実は今後も大きな懸念の材料である。


 そうした国家や国際機関に関する懸念だけではなく、先にも記したとおりCovit19は現代の社会の知性や人間関係をさらし出す役目をした。疫病とともに社会情勢が険悪になり、人々の不安が高まるほどに緊張は増してくる。そんな中で①マスク②ワクチン③医療体制の三点は注目すべき点だと思う。


 まずはマスクである。マスクを巡って日本で起きた滑稽こっけいな騒動は記憶に新しい。まずあのとき日本人が思ったのは、なぜマスクごときを作れないんだこの国は?ということだったに違いない。別に半導体とかスーパーコンピュータを作れという話ではない。マスクですよ?しかし現実は厳しかった。マスクは日本中の店頭から消えた。そしてアベノマスクなる奇天烈きてれつなものまで登場した。

 しかし、一体全体なぜみんなはマスクを求めたのだろうか?マスクに何を求め、マスクがないと何が困ったのだろうか?基本的にマスクはどちらかというと罹患者がすることによって咳や唾などに含まれる菌が飛散する事を防ぐことが主目的であるということは当初から盛んに言われていたことである。それが目的ならマスクを買い求めることは「他の人に病気をうつしてはいけない」という利他的な発想で買われたことになる。しかしもちろん現実はそんな利他的な目的で買われたわけではない。そんな利他的な人がマスクを買い占めたり、マスクがないと言ってドラッグストアの店員に罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせかけるはずがないではないか。と言うことは彼らは①マスクをすることで感染が防げると思った②マスクをしていないと感染源になる可能性があるため、爪弾つまはじきにされる可能性があるのでそれを恐れた。のいずれかの理由であろう。個人的に見ていると結構①の人が多かったように思えるが、それはどう考えても理性的な行動ではない。

 そもそもウィルスに対してマスクが効果があるかと言えば、「効果がないとは言えないけれど、極めて薄い」と僕は考えている。例えて言えば、マスクをしているというのは、小糠雨こぬかあめの日の網戸のようなものだろう。もちろん網目の大きさなどに左右されるだろうが網戸である事には変わりない。

 会話などでウィルスが、風に吹かれた雨のように侵入してこなければ何の問題もないし、雨が吹き込んできても多少の効果はある。だが、マスクをして大声で会話したら殆ど効果はないだろう。寧ろマスクをすれば安全だと勘違いした人もたくさんいる懸念がある。それが証拠にマスク越しに大声で話をしているおばさんを何人見たことか?彼女たちのいずれかがウィルスを保持していたなら必ず他方は感染したに違いない。

 クラスタが発生したときに「マスクをしてなかった」という報道は良くされたが、マスクをしていたから防げたという話は聞かないし、現実「マスクをしていたにもかかわらず」という話は山ほどあるのだ。こうした報道を良く批判する人がいるが、リテラシーの問題として余りに初歩的であり、その底辺に流れている「考え方」を察するのはさほど難しいことではない。

 それにしても当時の政権が配った布マスクは、一体何の象徴だったのだろう?多分、一枚数百円もする高価でそのわりに粗末なガーゼマスクはなんとなく、第二次世界大戦の竹槍のようなイメージを醸し出したまま、消えた。マスクを配ることによって誰が利益を得たのか、それを追求する矛先もそれと共に消えた。

 そして、対局にもう一つの異常なグループが現れた。そのグループは「マスクには効果がない」と主張したが、その主張自体は余り間違えではないと思う。しかし彼らの異常性はそれを異常なまでに声高こわだかに主張するその行動の特異性にある。

 僕にしてもマスクは効果がないとは思うが、病院・乗り物などに乗るときはその接近性において確率的に低減させるためと無用に不安を生じさせないためにマスクはした。(外で歩くときは端からマスクはしていなかった)外では取り分け女性、それも昔学級委員をやっていたような真面目そうな女性に結構メンチを切られたが、一切無視した。しかしそれを他人に強要することはしなかった。マスクをしていないと入れないという店には基本的に入らなかったし、止められた店にはそれ以降一切入っていない。これからも入らないだろう。それは店の価値観だし、その価値観に僕は余り賛成はしないが強要も争うこともしない。当初からそうだし、今でも同じである。外ではマスクはしない、電車などではする。循環システムを備えている高性能なマスクでもない限りマスクの機能などその程度の話である筈だ。布マスクに至っては何をやら・・・。

 しかし、このグループはマスクには効果が無いとマスクを付けずにがなり始めるというまことに幼稚な行為に出ることによって自らの主張にある一定の正当性まで消す行為に出た。更にこのグループに属するグループは「ワクチンにも効果が無い」という主張をしていたように見える。その主張の趣旨が那辺にあるのか、よく分らないが「コロナに何か制限されるのは嫌だ」という趣旨が基本的にあり、その発露としてマスクの着用も、ワクチンの接種も嫌で、行動制限を拒否するという幼稚園児並みの「イヤイヤ園」児のような主張を繰り広げていたように見える。まあ、そういう人間はいつの世にも一定数いるものだ、としか言い様がないが、こういう主張を「まともに取り上げる」のは民主主義の義務ではない。マスクを強要する人々も同じような物であるが、そもそもマスクの本当の効果を明確にしないままマスクを勧奨かんしょうした人々にも責任はある。マスク議論はこの病が日本に存在する知能的・精神的病を明確にしたに過ぎない。


 注目すべきはワクチンである。伝染病に関しては社会的治癒方法としてはワクチンという偉大な発明か、伝染病の蔓延による死者がピークアウトするまで待つ、の二つしか基本的には無い。対症療法は個人的な治療を通して社会的に影響を与えるうるが、対症療法ができた伝染病というのはそもそも伝染病としてのインパクトを与える問題は殆ど起きない。

 欧米の複数の製薬会社がワクチンを開発したと聞いたとき、Covit-19は遅からず終息すると考えたのは僕だけではないだろう。しかしCovit-19というウィルスは変異を遂げることでワクチンの効果を無効化しつつ生き延びた。おそらく彼らは「赤の女王の仮説」を知っていたのだろう。

 mRNAワクチンの有効性は「スパイク蛋白」の生成に依存するが、そのスパイク蛋白が変化することで有用なワクチンは変化に対して無効化する、その理屈は分ったとしてもそれが真実なのか、何を信頼してよいのかは分らなくなる。医薬は効くことによって無用化するパラドックスを秘めているので、ワクチンを作った製薬会社を疑いたくなる気もしないではない。現在のCovit-19への対応は「この病がなくなった」わけではなく「無害な方向に進化した」と「思われる」だけのはなしである。

 ただ、ワクチンを無効化したりすりぬけたりするウィルス(これを賢いとするのは誤りでそうしたウィルスは基本的に質の悪い不安定なウィルスである)はこれからも発現するであろうし、その場合の基本的なパターンを我々は習得する必要があるし、Covit-19をその予習としなければならないであろう。

 3番目の「医療体制」の問題は根深いと思う。それはコロナと無関係にもともと日本の医療体制に対して感じていた疑問である。日本の医療体制は「医者が裕福になるように設定されている」のは間違えない。医者が裕福になること、自体を否定するつもりはないが、どのような医者でも守られるような現在の医療体制の設計には疑問を持たざるを得ないのだ。だからコロナ禍で「医療従事者のみなさまに感謝」という横断幕が近所の商店街に掲げられているのを見て複雑な思いに駆られた。

 医療関係者への感謝というのは確かに「コロナと真剣に向き合った医療関係者」に対してはしなければならないのだろうけど、ではそれは誰なのだろうか?医者だから医療機関だから感謝すべきだと思うほど世の中の人はおめでたくなかろう。事実、コロナの診療を拒否した医療機関は少なくないし、それを「コロナ患者を診ることによって他の患者に感染させるリスクを避ける」というもっともらしい理屈に逃げたケースも少なくない。これは医療機関が質も考えも「バラバラの個人医」によって成立している日本の医療体制の欠陥が露呈したとみるべきではないか。

 そもそも個人医を中心とした形式が現代の医療に於いて正しい形式なのか甚だ疑問が残る。「良い個人医」がいることを否定しないが、体制としては極めて非効率で「医者は儲かるかも知れないが」「極めて非効率」で「良い医者もそうでない医者も一緒くたに扱う悪平等をもたらし」結局「医者が現実としてもうけ主義に走ることを許容する体制」だからである。その体制は医療の大都市集中化をもたらし、専門的な医療体制を困難にし、産婦人科の不足などを初めとしたかたよりを生じせしめ、感性症対策における組織的対応を不可能にした。僕が住んでいるエリアには山ほど、内科医・歯医者が存在する。一方でその中で信頼可能な医者を探すのは至難の業である。10年掛けて内科医は少し離れた場所に探したが、歯医者の方はまだテンポラリーである。

 コロナ禍の中、確かに信頼できる医師も何人かはいたし、それを確認することも出来たが反面、日本医師会の会長のように問題行動を取ったにも関わらず何の反省もしていない医師もいて、それが日本の医療の病巣を端的に表しているように思える。この体制が今後続けば日本の医療はどんどん劣化してしまうのだろう。

 大学教育・医師免許のあり方から変えていかなければなるまい。まずは医科大学は私立を排除し、すべて国公立にして無料化する。私立大学は(全てとはいわないが)医師の劣化の元凶である。私立医大、私立大学の医学部を卒業するには学費だけでも最低2000万円~4000万円必要で、実質はその倍近く経費がかかると思われる。まずその負担をできる者(例えば親が医者)でないとそもそもアクセスが出来ず、必ずしも医者として優秀な人間が入学できるわけではない。また、初期費用(学費、および開院する場合の準備費用)を回収するために政治に圧力をかけて医療費を有利にしようとする力がどうしても働く。その行為を許すメカニズムが政治として駄目である。学費を無料とする代わり、当面は国公立の病院で全員が働くことによって、病院の医師不足を解決する(無制限に個人医院などを許すから肝心な医療体制が出来ない)。医者が個人医院を開設できるのは病院の勤務を20年務めた後、ということにして基本的にホームドクターとして許可することにすれば医療費も削減が出来る。但し医療が不足する地域に於いては多少の緩和措置をすることによって大都市から地方へ医療リソースを配分しやすくする。

 肝心なのは国家としての医療のあり方・体制をきちんとすることである。コロナ禍において、医療体制は一部に異様な負担を強いたが、体制としては全く不十分であり、その理由は明白である。日本がコロナの下で医療崩壊を起こさなかったのは日本の医療体制が優れていたからではなく、単なる僥倖ぎょうこうであり、強いて言えば国民性によるものであって、もう一度その僥倖が訪れるとは限らないのである。


 それにしても疫病というのはゾンビ映画と同じ絵面を作る。最初の内、罹患しか患者を診る世間の目はどれほど冷たかったことであろう?まるでゾンビに襲われた人間を見るかのように拒否し、そのために近隣社会から爪弾きにされた人々もたくさんいた。しかしそれがどんどん日常に入り込み自らも感染すると、過去の行動はまるで忘れ去られ、人に感染させることさえなんとも思わなくなる。そうした社会に常に存在する病理的な心理も、疫病というのは明らかにするものなのだ。

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