第8話 小説の死

 「日本の小説」は1970年の如月、自衛隊市ヶ谷基地で割腹して死んだ。

 なぜ、そこで割腹して果てねばならなかったのか、いまだに良くは分からぬが、それは厳然たる事実である。もっともここで言う小説とは「明治以来連綿として続いてきた日本文学」の小説という意味で「日本の小説」はその意味では文明開化と共に花開き、欧化の中で成長し第二次世界大戦の終結を通じ、「西欧の馴化と消化(ないしは消化不良)、対立と政治的・物理的敗北」という経緯を経て戦後二十五年後に消滅したのだ。

 その担い手で言えば坪内逍遙つぼうちしょうよう、二葉亭四迷、夏目漱石、内田百閒うちだひゃっけん、森鴎外、芥川龍之介、中島敦、錚々そうそうたる小説家が、外来文化と日本の文化が混沌として煮詰まった坩堝るつぼでもがきながら綴ってきた文学は谷崎潤一郎、川端康成、太宰治に引き継がれ、その最後の担い手になったのは市ヶ谷で小説と共に自死した三島由紀夫であった。

 彼の死後もいろいろな小説家が現れ、書店の棚を彩ってきたが、「明治以来連綿として続いてきた日本文学」は二度と蘇ることはなかった。もちろん、その後も数は少ないものの心躍らせる小説を書いた人間はいる。辻邦生や丸谷才一、柴田翔、少し別な系統としては筒井康隆・・・。あるいは安部公房や村上春樹、大江健三郎など。だが、微かな痕跡はあるにしても、そこに西欧文明との衝突としての結果生まれたものとしての「日本の小説」の香りは極めて薄い。

 一つのカテゴリーとしての「日本の小説」は白亜紀の恐竜のごとく、ある日突然絶滅したのだ。

 しかし、日本の小説が自衛隊の駐屯基地で果てたのには偶然とは言えぬ、浅からぬ因縁があると僕は思っている。戦中、日本の作家達は軍によって基地に率いられ、軍人の生活を見せられそれを筆にして国民に知らせるという使命を課された。川端康成も鹿屋基地に連れて行かれ、誰が書いたのかよく覚えていないが「(川端が)赤い靴下と短靴をはいていた、なんだか羨ましかった」という記事があったのを微かに記憶している。

 軍部は「小説」のような文化が国民に与える影響を知っていて、反軍の中身であれば弾圧する代わり、戦争や軍を美化するような小説を求めそういう小説家を優遇した。そうした意味で軍と小説家は近い位置にあり、獅子文六や山岡荘八といった庶民派のみならずさまざまな作家を取り込んだ。たまたまであろうが中島敦などは南洋(パラオ)に行って戦争の前線の事情などを記している。戦時中に死んだ島崎藤村も戦陣訓の編集に携わった。それはヒトラーが支配していたドイツにおいてベートーベンやワグナーを初めとするアーリア系作曲家を称揚したのと軌を一にする「部分」がある。

 それだけではない。政治も経済も同様ではあるが、日本の小説も軍も西洋文化に大きく影響され変質した。その程度が政治や経済よりも大きかったのは、日本の社会に於いて、政治や経済に比べても系統だった「体系」が軍や文学に存在していなかったことに由来するのではないかと考えられる。従って政治や経済に比較しても「欠落した」部分を急速に補充した軍備と文学という文化はどこか軌を一にした「雰囲気」がある。

 だが戦後、軍はあっという間に解体されたものの(その後、自衛隊という形で再生したが)、小説は明治以来の伝統を一挙に消す必然性はなかった。それが故、川端や三島はくすぶる形でそれを引き継いできたが、それまで歩を一にしてきた軍と小説、互いの存在のギャップは広がるばかりであった。そして三島はそのギャップを正そうと(どっちが正しいのかは別として)軍を引き継いでいる組織としての自衛隊という概念での蹶起けっきを促し、失敗した・・・とも考えられるのではないか?

 まあ、そうしたことは措いておくとしても日本文学というのが既に転換点を迎えてかなりの時間が経っていることは否めないし、その中身が急速に乏しくなっているのは否定しきれない事実であろう。逆にアニメとか漫画という従来サブカルチャーとカテゴライズされてきたものが主流の座についている。おそらくは出版社においても漫画の方が売れるから優秀な人材はそちらにシフトしているに違いない。

 それどころか「文学の漫画化」あるいは「文字漫画」と思える傾向はどんどん進んでおり、おそらく純文学はやがてレッドリストの筆頭に登りつめることであろう。だがそうしたことを悲観しても仕方あるまい。漫画や文字漫画がどれほど流行しようと人に物理的な死は訪れないし、文化というものは社会的・政治的・経済的要因のよってなぜか再生するものなのである。


 日本は「源氏物語」という古代において世界的に見ても屈指の文学を持っており、平安時代にはそれに寄り添う形で優れた物語、随筆、日記が産まれている。またそれと平行して万葉集を基にする和歌も膨大な数を数え、彩り豊かな文学が栄えたのは事実である。例えば更級日記などは今の時代でも通用するほどのリリシズムを備えており、作者が常陸国から旅立つ間際の心情のくだりなど、世界に通用する水準の文学である。その作者が源氏物語を愛していたから源氏物語を最初に書いたが、どちらも読んだ自分としては個人的には更級日記の方を愛している。

 しかし、その後読み物としての「日本文学」が栄えたのかと言えば、さほどのことはない。特筆するとすれば、江戸時代の近松門左衛門や井原西鶴くらいで(それも演劇であり小説ではない)、明治になって西洋文学に接するまで1000年近く低空飛行を続けてきたと言って差し支えないだろう。だが例えば江戸時代に於いては今や歴史の中で消えてしまった草双紙といった読本が実際には読書という欲求を満たしていたのである。ただ、それは博物館には眠って存在しているとしても、文学としての価値は認められていない。

 一方で俳句という「詩」の文化は和歌と相殺するように流行したし、和歌も俳句も一定の高みに登り着いたがそれも途絶えた。(と言ったら怒る人もいるだろうが残念ながらそれは事実だ)


 一方、西洋においても教会・王制などの制度に遮られて必ずしも文学が栄えたわけではないが、イギリスで言えばチョーサー、フランスでいえばモリエール或いはスペインのセルバンテスなどを嚆矢として17世紀あたりから市民を中心とした文学が形成された。市民の発生と小説というのは不可分であるから、日本の小説が明治以降急速に発展したのは西洋の文化の影響が強い。日本にも受動的であるが「市民」というものが発生したからである。軍は政治の意向に沿って、そして小説は政治の意向とは無関係に急速に栄えた。そして栄えたものが滅びるというのは琵琶の音とともに平家物語に語られるように常に真実である。

 しかしそうした小説を支えた市民という概念も実態も、次第に姿を消そうとしている。オルテガ イ ガセットの指摘する「大衆」は彼がその存在を指摘した1930年の状況よりも更に悪化する形で猖獗しょうけつを極めている。彼の時代の大衆は第二次世界大戦と共に急速に減少したが、その後復活してリバウンドの症状を見せて世界に充満しており、それはもしかしたら悲劇的な解決をするしか減少させる方法はない、つまり愚行による反省という形でしか「大衆」は減少しないのかもしれない。そんな大衆は読本を喉の渇いた砂漠の旅人のように求め、飲み干し、更に続きをほしがり消費していく。


 今は読本の時代なのだろう。とはいえ読本の時代の方がよほど長いのだから仕方ない。ただ、そんなものを読むかどうかは読者次第、そういう事なのだろう。

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