第6話 専門家・第三者という欺瞞
最近、政治や行政、あるいは問題を起こした企業が、専門家や第三者に判断と解決を委ねるケースが多い。問題が起きた場合その問題の専門家へ、利害関係が
何か問題を起こしたときに「その問題に利害関係のないように見え、一方で自分の利益を代弁してくれそうな」第三者、「とりあえず言うことを聞く、それなりの肩書きを持って、一般の人がよく知らない」専門家に丸投げして、アリバイ作りをする、という行為が
全てがそうだとは言わないけれど、どうも専門家・第三者という言い方が「時間稼ぎの上」「有利な判断をしてくれる」ために便利に使うケースが多いように思えるのは往々にして、時間稼ぎをした上で世間の目が他に向いた頃に出す彼らの結論が「根本的な問題を摘出して、それを改善する」ような話になっていないためである。いつの間にか依頼した側に有利な結論に落ち着いているように見えるのは
以前、海外の会社で働いていたときに税理士法人から移転価格税制に関わる監査を受けた事がある。僕自身は経理部門ではなく調達部門にいたのだが、一日中缶詰になって製品群毎に違う利益率なのはなぜなのか、その構成など結構厳しめの質問を受け経理部門長に「こちらが金を払っているのになんであんなに厳しく問いただされなければならないのか」と
しかし日本の企業を監査している監査法人の中には「金主の意向」に沿って監査をしている監査法人も少なくなく、「それでもなんとか
今となっては「それが専門家なのか第三者なのか」を判断する「専門家」が必要なのではないかとさえ思えてくる。ではなぜそんな事が起きるのであろうか?
制度としての監査制度、思想としての監査や第三者、専門家によるチェックなどが日本で理解されていない、という訳でもない。実際にそうした期間が絡んだ事件が起きれば監査や調査したものだけではなく、それを依頼した方も批判はされる。
だが実際に当事者になってみると、そんな理屈を自らに適用はしない。それは理屈抜きで染みこんだ事なかれ主義・・・長いものには巻かれると同様の農民的な発想に違いあるまい。身体に染みこんだ発想は常に理屈に基づく正義を上回っていく。
そうやって守った組織・その中にいる人々は時と共に腐っていき、腐臭をまき散らしながら存在し続ける。そうした組織に溢れた社会はその中にいる人間とその周りの人々をも腐らせていくのだ。そう考えてこそ自らに厳しい規律を課する社会が生まれていくのであろう。そうした発想は本来正しい姿である「第三者」や「専門家」への委託という「有り
単純に論ずると「第三者・専門家を前面に出してくるケースは殆どの場合当事者にやる気はない」アリバイ作りに過ぎないと感じる。なぜなら、真面目に行う人には問題を解決するためのプログラムを必ずアプリオリに持つはずで、そんな心構えのない人間が問題を解決できるはずはないからだ。第三者や専門家はそのためのツールであり、解決手段そのものではない。そして中立的にかつ専門的にしつこいくらい問題を分析し、きちんとした最終的な方策を提示する、そんな姿はめったに見ることが出来ない。
これはトップの責任でもあるのだが、往々にして取り巻きの仕業でもある。なぜならば、そう言う問題が発生したとき組織には「友敵」問題が立ちはだかり、問題をきちんと解決しようというグループと、機会に乗じてトップを更迭しようというグループは(そもそもそんな存在があるのかは別として、危機の時にはそういう妄想が膨らむ物だ)ごっちゃになり、内部的な論理が優先して企業の対応が作られる物である。(そうした経験は筆者も何度となく経験している)そうしたときにもっとも役に立つ(本当は役にたたない)逃げ道が「第三者や専門家」になっているケースが多いのだ。
そうした茶番劇の果てには「駄目になった会社・組織」の集まる「駄目になった社会」が現出する。今の日本がそうだとまでは言わないが、「そうなる可能性」は否定できない。心してほしいものである。
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