第5話 評論の終焉
昔、確かに「(正統なる)評論家という種族」がいた。評論というのは基本的にその対象となる制作作業をする人々、例えば作家・演奏家・政治家などに対して批評・批判・非難を伴う発言を
この過程までは能力のない制作者についての賞賛は出来ぬが理解は可能である。だが、評論・批評はなぜか常に大衆の「批判」の対象にもなってきた。
単なる批判と批評の違いは批判が「判じ」であり、批評はそこに「評論」という知的な説明が必要とされることである。評論というのは基本的なスタンスとそれに付随する知的説明という高度な作業が必要で、そう定義をする限りその場限りのいい加減なことを許容しかねない批判とはだいぶに違う。だからこそ、批評家、評論家は尊敬される存在であった。
例えば、小林秀雄とか林達夫である。彼らの評論は制作者を直接批評するものであっても、その制作と同じだけの扱いを受けて、評論という制作の一分野を形成してきた。だがその系譜にある評論家はいつのまにか絶滅しつつある。残っているのは評論家という肩書きだけであり、評論家も「評論家を批判する某」にもろくなものは残っていない。
従って今、評論をしていると言えるほどの評論家はいないと言っても差し支えないはずなのだが、例えば僕の好きなクラッシック音楽の世界でも評論家と名乗るものたちは残存している。
最近そうした評論家が雑誌でベスト盤を選ぶという試みをしていたので、書店で眺めてみた。評論家がさまざまな演奏に点数をつけ、ベスト盤を選んでいるその仕組みは昔からあったような気がするので、賛成はしかねるが否定はしない。しかし問題はその中身である。演奏家に対するリスペクトのかけらもなく点数が下がった理由を得意げに説明したり、どう考えてもおかしいだろうという理由付けだったり、全てが駄目というわけではないが、かなりの部分が読む気になれない代物であった。金を掛けてあんなものを作ってはいけない。ならば無理をして批評などはしなくても良い。黙って見、眺め、聞けばいい話である。少なくとも評論という行為を貶めるよりはマシであろう。評論は「あるものを評価する」というポジティブな方向というより概ね、「他のものを評価しない」というネガティブな方向に全体を仕向ける可能性がある。つまりできの悪い評論は良いものを殺し、できの悪いものを蔓延らせるというとんでもない効果を持ちうる物であり、よほどの努力と研鑽なしには迂闊に手をつけない方が良いものだ、からである。
テレビやインターネットにおける評論めいた活動はさらにたちが悪い。制作者とつるんだとしか思えないいい加減な評論、そもそも評論の対象にすべきか分らない対象(○○グルメ評論とか、生活評論とか)そうしたものが氾濫することで評論の価値は地に墜ちつつある。そうしたレベルの低いものに対して、評論に対する批判がインターネットの世界では巻き起こりさらに事態を悪化させていく。本来は評論にあったはずの価値が、「批判」に同調せざるを得ないほどに
本来作家を初めとした芸術家と評論家は刃物と砥石のような存在であったはずである。砥石を欠いた刃物は必然的に
制作者と批評家が互いに我楽多を手に相手をたたき合い、それを周りでやんやと囃し立てる、そんな世界はまともな聴衆からはすぐに見捨て去られるであろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます